山下清

Kiyoshi Yamashita    
1922年年-1971年年
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国籍
日本
ジャンル
アーティスト解説
山下清は色紙をちぎって点描派風に貼ってつくった作品を高く評価される画家です。
幼い頃の発病の後遺症で、軽い知的障害を持っていた彼は、児童養護施設の八幡学園で貼り絵を始め、優れた観察力と大胆な色づかいが高く評価され、「日本のゴッホ」という異名も持っています。
また18歳のときに突然学校から姿を消し、日本全国を放浪していました。
やがて徴兵され戦地に出兵することに恐怖を感じたとのちに語っています。
この時の山下を描いたテレビドラマの「裸の大将放浪記」が日本でヒットし、純朴で愛すべきキャラクターが人気を呼び、「裸の大将」として知られるようになりました。
銀座の画廊で展覧会を開いた際は大盛況で、記録的な観覧者数となり、会場の床が抜け落ちたほどであったと言います。
山下は驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」「桜島」など行く先々で見た風景を記憶し、貼り絵に残しました。
特に花火が好きであった山下は各地の花火大会に足を運んでいたと言います。
テレビドラマの描写では旅先で作品を製作しているシーンがありましたが、実際には旅先ではほとんど絵を描くことがなく、旅を終えたのちに製作していたのだと言います。
1971年に脳出血のため49歳で死去しています。
経歴

    1922年 大橋清治・ふじの長男として生まれる。3歳の頃に重い消化不良で命の危険に陥り、一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患う。

    1932年 脳出血で父の清治が他界、母ふじが再婚。

    1934年 養父が不在の間、母ふじが清を含む子供3人を連れて北千住の木賃宿へ逃れる。知的障害児施設「八幡学園」へ預けられる。

    1936年 この学園での生活で「ちぎり紙細工」に出会い、学園の顧問医を勤めていた精神病理学者・式場隆三郎の目に止まり、式場の指導を受けることで一層開花する。

    1938年 画廊で初個展を開催、翌年には大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催される。

    1940年 18歳の時に突如学園を後にし、1954年まで放浪の旅へと出る。

    1956年 東京大丸の「山下清展」を始め、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人を超えた。大丸の展覧会には当時の皇太子も訪れた。

    1961年 約40日間のヨーロッパ旅行に出発。

    1971年 脳出血のため49歳で死去。

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