サルバドール・ダリ

Salvador Dali    
1904年-1989年
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国籍
スペイン
ジャンル
アーティスト解説
1904年、スペインからの独立運動が盛んだったカタルーニャ地方に生まれたダリは、裕福な家庭で、甘やかされて育ちました。
しかし、生まれる1年半ほど前に亡くなっていた兄の名を継いだこともあって、死への関心が高かった画家です。
17歳のときに母を亡くし、王立美術アカデミーで学んだあと、パリに渡り、ピカソやミロと出会います。

その後、シュルレアリストのグループに入って、ダリの運命の女性・ガラと出会います。
ガラという精神的な支柱を得たダリは、積極的に創作に取り掛かり、代表作のひとつ《記憶の固執》をはじめとする名作を生み出します。
米国・ニューヨークでの初の個展が話題を呼び、アメリカで大成功をおさめたダリは、シュルレアリスムの代名詞のようにもてはやされました。
しかし、その反面、過激な行動を取るダリに反感をもったシュルレアリストのグループからは除名されてしまいます。

米国に移住したダリは、有機的で曲線的な描線を好み、《ヴィーナスの回想》では溶け落ちる時計のイメージが印象的に訴えかけてきます。
また、この作品の展示の際には、人魚に見立てられた水着を着た女性たちが水槽で泳ぐという、パブリック・アートやインスタレーションの先駆的な試みを取り入れていて、現代アートの代表的な存在になっていきます。

ダリの生きた時代は戦争の時代でもありました。
そのため、時代にたちこめる暗雲を象徴的に表現した《茹でたインゲン豆のあり柔らかい構造(内乱の予感)》などが制作されていきます。

終戦後、『神秘主義宣言』を発表し、目に見えない科学的な要素である量子や原子力などに興味を持ち、画題として取り入れていきます。
また、絵画や彫刻にとどまらず、インテリア、映画、舞台美術、ファッション、ジュエリーなど、活躍の場は多岐に渡っています。

晩年に入ると、ダリは妻・ガラとともにスペインに帰国します。
「原子」と「幻視」、「心理」と「真理」を置き換えて、原子絵画や宗教画を描いていきます。
1960年代以降、不遇の時代を迎えます。
それは、妻・ガラの浪費をまかなうために大量の未完作品にサインをして販売したため、価値が下がったことが原因とされています。
その妻・ガラからは後年冷遇されますが、ダリは愛し続け、1982年のガラの死後の1989年、火傷を負い寝たきりの状態だったダリは、帰らぬ人となりました。
経歴

    1904年 スペインのカタルーニャ地方にある、フィゲラスという小都市の有力者で、公証人をしていた父のもとに生まれました。

    1921年 ダリが17歳のときに、母をガンで亡くしています。

    1922年 マドリードにある王立美術アカデミーに入学。

    年 のちに映画監督になるルイス・ブニュエルや、詩人となるガルシア・ロルカと出会います。

    1929年 ダリが25歳のときに、パリのシュルレアリストのグループに加わります。

    年 この年、ダリのミューズともいえる存在となる女性・ガラと出会い、ふたりは情熱的な恋に落ちます。

    1930年 ガラとの出会いによって創作意欲を刺激されたダリは、漁港ポルト・リガトにアトリエを構えて、制作に打ち込みます。

    1931年 《記憶の固執》を制作。

    1933年 ダリ、29歳のとき、米国・ニューヨークで初めての個展を開催して、大反響を呼び、シュルレアリスムの代名詞のようにもてはやされました。

    1934年 ガラと正式に結婚。

    1939年 シュルレアリストのグループから除名されます。

    1940年 アメリカに移住。

    1948年 スペインに帰国。

    1950年 父、死去。

    1969年 プボル城を購入。

    1974年 ダリ美術館が開館。

    1989年 死去。