ポール・ゴーギャン
Paul Gauguin1848年-1903年
ゴーギャンが本格的に画家を目指して活動を始めたのは35歳のときで、他の画家たちにくらべるとかなり遅いスタートでした。商船での水先案内人、海軍、株式仲買人などを経て絵を描くようになり、それまでは余暇に趣味として描いていた絵を本業とします。しかしゴーギャンの絵はなかなか評価されず、絵が売れず経済的・精神的にも厳しい生活を送ることとなります。
初期のゴーギャンの作風は印象派の影響を受けていますが、伝統的なヨーロッパの絵画や印象派があまりに写実を重視し、象徴的な含みに欠けているとゴーギャンは感じるようになり、新しい描き方を模索するようになります。それからのゴーギャンはアフリカやエジプト、日本の美術に興味を持ち始めます。そして晩年のタヒチでの制作活動では、立体感や固有の色を表現せず、描くものをイメージの象徴としてとらえ、平面的に表現する新たな様式を確立しました。ゴーギャンの残した作品で傑作と呼ばれているものは晩年の作品が多く、赤を多く使う大胆な色使いや、平坦に色を塗る神秘的で原始的な手法で描かれています。
1848年 二月革命の年に、共和派のジャーナリストの父と、社会主義思想の女性作家での母のもと、パリで生まれる。
1849年 共和派の弾圧を避けるためにペルーへ移る。
1856年 再びフランスへ戻り、オルレアンで生活する。
1866年 商船の水先人見習いとして働き、南米など世界各国を巡る。
1871年 パリ株式取引所で株式仲買人として働き始め、同僚の誘いで画塾に通い始める。カミーユ・ピサロと出会う。
1873年 デンマーク人の女性と結婚し、5人の子供が生まれる。
1876年 サロンに出品し、入選する。
1879年 第4回~7回印象派展に毎年作品を出品する。
1883年 株式仲介人の仕事を辞め、本格的に画家としての生活を始める。
1888年 南仏のゴッホを訪れ、ゴッホの黄色い家で共同生活を始める。
1891年 タヒチを訪れ制作活動を行う。
1893年 フランスに戻る。
1895年 再びタヒチを訪れる。
1897年 最愛の娘アリーヌが肺炎で亡くなる。『我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか』を制作する。作品完成後、砒素を飲んで自殺を図るも未遂に終わる。
1902年 健康状態が悪化し、足の痛み、同期、全身の衰弱といった症状に悩まされる。
1903年 亡くなるまでの2年間も制作を行っていたものの、国家憲兵から名誉棄損で禁固刑と罰金を宣告されるなど苦悩の日々は続き、禁固刑が宣言されてから2か月後に突然倒れ54歳で亡くなる。