熊谷守一

Morikazu Kumagai    
1880年-1977年
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国籍
日本
ジャンル
アーティスト解説
熊谷守一は明治~昭和期に活動した画家です。
熊谷は写実画から出発し、表現主義的な作風で描いていた時期もありましたが、作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に近づいていきます。
その極度に単純化された形、それを囲む赤や黒のはっきりとした輪郭線、平面的な画面構成という独特の作風は、「熊谷様式」とも呼ばれています。
熊谷は富裕層の生まれでありながら、権威を嫌い生活に頓着しない極度の芸術家気質であり、赤貧の生活を送りました。
故郷の岐阜で材木運びなどの過酷な日雇い仕事に従事したり、樺太調査隊に同行した際にアイヌの人々の思想に感銘を受けたりしたこと、そして貧しさの中で愛する子を3人も失った経験が、熊谷の画風を子どもの絵のように単純化されたものへと変化させていったともいえるでしょう。
熊谷は、自然や裸婦、身近な小動物など、生命のあるものを好んで描きました。
70代半ばに軽い脳卒中で倒れてからは自宅からほとんど出ることがなく、昼間はずっと自宅の小さな庭で過ごし、夜はアトリエで絵を描くという生活を続けました。
熊谷にとって庭は小宇宙であり、わずか18坪の世界に生きるさまざまな生命を見つめ続け、庭にやってきた鳥や昆虫、飼い猫や庭に咲く花などを次々と描いていきました。
それらの作品は一見ユーモラスで、苦もなくさらりと描いたようにも見えます。
しかし、初期から晩年までの作品やその制作の様子をたどると、暗闇や逆光などの特殊な条件下でのものの見え方を探ったり、スケッチを元に同じ図柄を複数の作品に用いたりするなど、描くことに対するさまざまな探究の跡が見えてきます。
さらに、「アリは左の2番目の足から歩き出す」といったような、科学者にも似た鋭い観察眼が秘められているのです。
経歴

    1880年 岐阜県恵那郡付知村(現・中津川市付知町)の名家に生まれる

    1900年 東京美術学校西洋画科撰科に入学

    1909年 「蝋燭」により第3回文展で褒状を受ける

    1910年 一時帰郷し、材木運搬などの日雇い労働に従事する

    1915年 再び上京、二科展で発表を始める

    1922年 大江秀子と結婚

    1928年 次男・陽を亡くす。その後、1932年に三女・茜を、1947年に長女・萬を失う

    1967年 文化勲章の内示を辞退

    1977年 97歳で没