パブロ・ピカソ

Pablo Picasso    
1881年-1973年
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国籍
スペイン
ジャンル
アーティスト解説
スペイン生まれの画家、パブロ・ピカソは、生涯中に10万点の版画や3万4千点の挿絵、1万3千500点の油絵と素描、300点の彫刻と陶器を制作しており、最も多作な芸術家としてギネス世界記録に登録されています。ピカソは、固定した一つの視点から描く方法ではなく、立体派と言われる、いろいろな角度から見たイメージを画面に収める図法「キュビズム」の創始者としても知られています。
幼少期から才能を発揮していたピカソは、初めからキュビズムを用いたのではなく、その図法は時代ごとに変化していきました。1901~1904年は青を主に用い薄暗く陰鬱な作品を描いていた「青の時代」、1904~1906年には、恋人のフェルナンド・オリヴィエをモデルとし暖色の明るい色調の作品が続いた「ばら色の時代」、1907~1909年には、古代イベリア彫刻などに影響を受けキュビズムの原点となる「アフリカ彫刻の時代」、そして1909年からキュビズム時代に入っていきます。キュビズム時代にも、セザンヌ的キュビズム時代(1909年)、分析的キュビズム時代(1909~1912年)、総合的キュビズム時代(1912~1918年)と移り変わっていきます。その後も、1918~1925年には古典的で写実的な技法を用いた「ピカソの新古典主義の時代」、1925~1935年には、精神的な不安さが作品に反映されたような非現実的で怪物のようなモチーフが登場する「シュルレアリスムの時代」と、各時代に出会った人や、家族や仲間の死、戦争などに大きく影響を受けながら多様な図法を用いて変化していきました。
多作だったこともあり、今でもピカソの作品は世界中の美術館で保有されているだけではなく、スペインのバルセロナや、マラガ、フランスのアンティーブやヴァロリスなど、多くの場所にピカソ美術館が存在しています。
経歴

    1881年 10月25日スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセドに生まれる。

    1892年 ラ・コルーニャの美術学校に入学。

    1895年 バルセロナに移住、美術学校に入学。

    1897年 『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞、マラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。

    1901年 雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで初の個展。「青の時代」の始まり。

    1905年 「ばら色の時代」または「桃色の時代」が始まる。

    1913年 父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。

    1918年 オルガ・コクローヴァと結婚。

    1930年 「ピカソ夫人像」がカーネギー賞を受賞。

    1932年 マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。

    1936年 人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。

    1937年 「フランコの夢と嘘」を出版、「ゲルニカ」製作。

    1939年 ニューヨーク近代美術館で個展を開く。

    1944年 パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。

    1945年 ロンドン、ブリュッセルで個展を開く。

    1953年 リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。

    1955年 妻のオルガが死去。

    1961年 ジャクリーヌ・ロックと結婚。

    1964年 日本、カナダで回顧展。

    1966年 パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展。

    1967年 シカゴで巨大彫刻「シカゴ・ピカソ」公開。

    1970年 アヴィニョン法王庁で140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。

    1973年 4月8日に南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。ヴォーヴナルグ城に埋葬。