長谷川等伯
Tohaku Hasegawa1539年-1610年
能登国七尾(現・石川県七尾市)に生まれ、20代の頃から信春の名で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていましたが、1571年頃に上洛し、狩野派など諸派の画風を学び、中国の画僧・牧谿、雪舟らの水墨画にも大きな影響を受けました。
京都と当時栄えていた堺を行き来し、堺商人や千利休と親交を結び、豊臣秀吉に引き立てられることで、当時の画壇トップだった狩野派を脅かすほどの存在となりました。
晩年には、養父が雪舟の弟子・等春の門下であったことから「自雪舟五代」を名乗り、当時評価が高まりつつあった雪舟の名を掲げ、自らの家系と画業の正統性を打ち出しました。
智積院所蔵「楓図壁貼付」をはじめとする金碧障壁画と、水墨画の両方で独自の画風を確立しましたが、特に国宝「松林図屏風」は日本における水墨画の最高傑作と評されます。
等伯が祖となった長谷川派は、等伯存命の間は当時の狩野派よりも色彩感覚に優れ、斬新な意匠を特徴としていました。
しかし、等伯に勝るほどの才能を持っていた長男・久蔵は26歳で早世してしまいます。
等伯の没後は残った3人の息子たちがそれぞれ後を継ぎましたが、等伯を凌ぐ長谷川派の絵師は登場することはありませんでした。
なお、本法寺の日通上人が等伯の話を筆録した「等伯画説」は、日本最古の画論として貴重な資料となっています。
1539年 能登国七尾(現・石川県七尾市)に生まれる
1571年 養父母が亡くなる。この頃に上洛か
1589年 「大徳寺山門天井画・柱絵」「山水図襖」を描く
1593年 「祥雲寺障壁画」を完成させる。長男・久蔵を失う
1599年 「仏涅槃図」を描く。この頃「自雪舟五代」を自称する
1606年 「龍虎図屏風」を描く
1610年 江戸下向到着後、没。享年72