岡本太郎

Taro Okamoto        
1911年-1996年
https://media.thisisgallery.com/wp-content/uploads/2018/12/okamototarou.jpeg
国籍
日本
 
アーティスト解説
1911年、神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在は神奈川県川崎市高津区二子)にて、漫画家の岡本一平、小説家のかのことの間に長男として生まれました。
「太陽の塔」をはじめ、多くの名作を残した日本を代表する洋画家で、その作品の数々は現在でも関心と話題を集め続けています。
幼少期より絵画をはじめ、後に日本を代表する芸術家となった岡本太郎ですが、「何のために描くのか」という疑問が生まれ、答えを探し続けていた時期もありました。
その答えが見つかったのは、1932年のこと。
ポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品と出会い衝撃を受けたことがきっかけで、ピカソを超えることを目標に絵画制作に打ち込むようになります。
その後、積極的に絵画・立体作品を制作しながら文筆活動を行い、雑誌やテレビなど様々なメディアにも出演しました。
絵画や彫刻から、舞台、建築、プロダクトデザインなど活躍は幅広く、「芸術は爆発だ」などの名言も残しています。
1942年から中国戦争に出征し、46年に復員しますが、戦時中にアトリエや作品が全て焼失した経験も持ちます。
1970年に大阪で開催された万国展示会ではシンボルタワーの「太陽の塔」を制作し、現在でも保存され高度成長期の日本を象徴する建造物となりました。
「プレイボーイ」と呼ばれるなど女性関係が盛んだったことでも知られていましたが、生涯独身を貫き、秘書であった岡本敏子を養女としています。
スキーやピアノなど趣味も多く、アトリエにもピアノを置いてクラシックやジャズなどを演奏し、その腕前はプロ級と言われるほどでした。
経歴

    1911年 漫画家の岡本一平、小説家のかの子との間に長男として神奈川県で生まれた。

    1917年 東京青山にある青南小学校に入学し、一学期で退学する。

    1929年 慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校洋画科入学するも半年後に中退。渡米しパリ大学ソルボンヌ校で哲学・美学・心理学・民族学を学ぶ。

    1936年 油彩『傷ましき腕』を制作。

    1940年 日本へ帰国。

    1942年 徴兵検査を受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。

    1946年 東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。

    1948年 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成。

    1950年 現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。

    1952年 パリに渡米し、翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。

    1954年 アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。

    1955年 ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。

    1959年 彫刻を始める。

    1961年 油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。

    1964年 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。

    1965年  名古屋の久国寺に梵鐘『歓喜』制作。

    1967年 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。

    1970年 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館『太陽の塔』完成。

    1974年 NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画『天に舞う』制作。

    1977年 スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。

    1981年 初めてコンピューターで絵を描く。日立マクセルのCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を受ける。

    1984年 フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章。

    1988年 ダスキンのCMに出演。

    1989年 アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章。

    1992年 油彩『疾走する眼』制作。

    1994年 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント『であい』制作。

    1996年 パーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去。