竹内栖鳳

Seihou Takeuchi    
1864年-1942年
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国籍
日本
ジャンル
アーティスト解説
竹内栖鳳は、明治以降の近代美術界において中心的な役割を果たし、後進の指導にも力を注いで多くの逸材を育成した、日本画の巨匠です。生涯に渡って京都画壇に存在感を示し、文展、官展の重鎮として「東の大観、西の栖鳳」と並び称されるに至りました。15歳で四条派の幸野楳嶺に学び、17歳の時に円山四条派の名手・幸野楳嶺に入門。この頃から頭角を現し、数々の博覧会で名声を上げていきます。1900年、36歳の時に「雪中燥雀」がパリ万博で銀牌を受賞。視察をきっかけとしてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けました。栖鳳は、円山四条派の伝統的写生を基本としながら西洋画の写実性を取り入れた新しい画法を生み出し、その革新的な画風で近代日本画の道を切り開きました。大画面を破綻なくまとめる確実な技量と悠然とした迫力で、「けものを描けば、その匂いまで表現できる」とまで言われたほど。栖鳳の制作は一貫して実物観察による写生から出発したと言われます。雀や魚の写生を好み、虎やライオンなどの珍しい猛獣から身近な存在まで数多くの動物を描き、名作「斑猫」などを残しました。風景や水の描写などにも、伝統的な日本画の技法に西洋絵画の写実技法を取り入れた、洗練された情感溢れる筆致が見られます。栖鳳はまた、京都府画学校を皮切りに、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教諭や文展審査員、帝室技芸員、帝国美術院会員を歴任し、後進の育成や日本画の発展に力を尽くした人物もあります。門下からは上村松園、西村五雲、西山翠嶂、土田麦僊、小野竹喬、徳岡神泉などの日本画の名画家たちを輩出しています。
経歴

    1864年 京都に生まれる。

    1887年 結婚を機に絵師として独立する。京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。

    1889年 京都府画学校に出仕。

    1893年 シカゴ万博に出品。

    1899年 京都市立美術工芸学校の教諭となる。

    1900年 パリ万博にて「雪中燥雀」が銀牌を受賞。視察をきっかけにヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受ける。

    1907年 文展開設とともに審査員に就任、以後1918年まで務める。

    1913年 帝室技芸員に推挙される。

    1919年 帝国美術院会員となる。

    1909年 京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)開設とともに教授に就任。

    1924年 フランスのレジオンドヌール勲章受章。

    1931年 ハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞受賞。

    1937年 第1回文化勲章受章。

    1942年 神奈川県足柄下郡湯河原町の天野屋旅館別荘で病気療養中の折、肺炎のため逝去。