歌川広重

Hiroshige Utagawa        
1797年-1858年
https://media.thisisgallery.com/wp-content/uploads/2018/12/DmOmbsNU0AAqxms.jpg
国籍
日本
 
アーティスト解説
歌川広重は、風景画の傑作「東海道五十三次」を残した浮世絵師。「冨嶽三十六景」を描いた葛飾北斎と並び称され、当時の江戸庶民の人気を二分しました。安藤広重とも呼ばれますが、安藤は本名の姓なので、画の号である歌川広重が正しい呼び名です。若くして歌川豊広の門に入り、狩野派・南画・円山四条派などにも学びつつ、さらに西洋画風をも取り入れた幅広い画風を形成。役者絵・美人絵から出発しますが、北斎に刺激されて風景画に転向、1833年37歳の時に名作「東海道五十三次」を発表して、風景画家としての名声を決定的なものにします。「近江八景」「江戸近郊八景」「木曾街道六十九次」「名所江戸百景」などの風景画のほか、肉筆画にも名作を残しました。最晩年の大作は富士山を題材とした36枚からなるシリーズ「冨士三十六景」。ライバルであった北斎の「冨嶽三十六景」を意識したとも言える作品です。広重の作品もまた北斎と同様、ヨーロッパで大きな反響を呼びました。広重の作品は大胆な構図などとともに青色、特に藍色の美しさで評価が高く、欧米では「ジャパンブルー」「ヒロシゲブルー」などと呼ばれます。この鮮やかな青は当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料・紺青で、木版画の性質から油彩画よりも鮮やかな発色を示したものです。ヒロシゲブルーは19世紀後半のフランス印象派画家たちやアール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与えたとされ、ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつとなりました。広重の用いた遠近法は印象派画家、特にゴッホに影響を与えたことで知られており、「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」を模写した「日本趣味 : 梅の花」の、梅の枝や花を超近景に配置する大胆で奇抜な構図によく表れています。「東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん」と、最後まで旅と風景画への憧憬を滲ませた辞世の句を残し、61歳で没しました。
経歴

    1797年 江戸八代洲河岸の火消同心の子として生まれる。

    1811年 歌川豊広に入門。

    1818年 一遊斎の号を使用してデビュー。

    1832年 養家の嫡子仲次郎の元服に伴い正式に同心職を譲り、絵師に専心する。

    1833年 この年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声を決定的なものとする。

    1858年 62歳で逝去。死因はコレラと伝えられる。