歌川国芳
Kuniyoshi Utagawa
1798年-1861年
国籍
日本
アーティスト解説
歌川国芳は江戸時代末期を代表する浮世絵師のひとり。画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を数多く生み出しました。国芳が一躍江戸の有名人となるのは、1827年頃に発表した大判揃物「通俗水滸伝豪傑百八人」という「水滸伝」のシリーズです。この作品によって「武者絵の国芳」と称され、人気絵師の仲間入りを果たすこととなりました。ところが老中・水野忠邦による天保の改革により運命は一変。質素倹約、風紀粛清の号令の元、1842年には国芳の人情本・艶本も、取り締まりを受けて絶版処分になります。国芳は浮世絵で幕府を痛烈に皮肉り、反撃を開始。1843年の「源頼光公館土蜘作妖怪図」は、平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治と見せかけて、将軍・徳川家慶や老中・水野忠邦のずさんな悪政や、ユーモラスな妖怪の形を取った弾圧の被害者たちを、鮮やかに描き出しています。江戸の人々は、絵に込められた謎を解いては溜飲を下げて大喜びしました。国芳は要注意人物と徹底的にマークされ、奉行所から尋問や罰金、始末書などの処分を受けますが、国芳の筆は止まりません。禁令の網をかいくぐりながら幕府の風刺を続け、江戸の人々のヒーローとなり、人気は最高潮に達しました。水野忠邦が失脚すると、国芳はすぐさま「宮本武蔵と巨鯨」など奇想たっぷりの武者絵を発表して新機軸を見せます。晩年は、西洋絵画の写実的な表現にも果敢に挑戦しました。国芳は無類の猫好きとしても知られ、常に数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたとも伝えられます。身近な動物を擬人化して世相を風刺した作品や、動物に託して江戸の庶民生活を描写した作品も豊富です。これらの作品の中に、現代日本に花開く漫画文化の源流を見出すことができるのかもしれません。
経歴
1798年 江戸日本橋本銀町一丁目に生まれる。
1811年 初代歌川豊国に15歳で入門。
1814年 合巻「御無事忠臣蔵」(竹塚東子作)表紙と挿絵で初作を飾る。
1815年 この頃から一枚絵を制作。
1827年 大判揃物「通俗水滸伝豪傑百八人」が評判となる。「武者絵の国芳」と称され、人気絵師の仲間入りを果たす。
1842年 天保の改革によって取り締まりを受け、人情本、艶本が絶版処分となる。
1843年 「源頼光公館土蜘作妖怪図」で江戸幕府の理不尽な弾圧を風刺、批判する。幕府からはたびたび処分を受けたが、民衆からは絶賛された。
1848年 大スペクタル絵画「宮本武蔵と巨鯨」を発表し、絶賛される。
1861年 65歳で死去。