竹久夢二
夢二竹久1884年-1934年
夢二は岡山県で生まれましたが、実家の酒屋が破産したため一家で福岡へと転居します。しかし、幼い頃から絵が得意だった夢二は画家を目指して家出、東京へ上京し早稲田実業学校へ入学します。そして新聞や雑誌に自分の絵を寄稿していた夢二は、情緒あふれる独特な美人画で、一躍流行画家へとのぼりつめます。
夢二は「大正の浮世絵師」などと呼ばれることもあり、彼の描く女性は「夢二式美人画」といわれています。夢二によって日本画の技法で描かれた女性たちは、ゆるやかなS字ラインのポーズをとり、女性の美しさや色気がさりげなく表現されています。そして長いまつげと大きな目、伏し目がちで憂いを帯びた表情は、抒情的な美しさを醸し出しています。
夢二は女性のさりげないしぐさ、表情、手の動き、着物のきこなし、色、といった女性の美しさを、独特な表現で描き続けたのです。
また、書籍の装幀や日用雑貨、浴衣などのデザインも手掛けていた夢二は、グラフィックデザインの草分けともいえる人物です。さらに、夢二の活躍は画家だけにとどまらず、詩人としても有名で、詩「宵待草」には曲が付けられ、全国的な愛唱曲として知られています。
1884年 岡山県邑久郡本庄村に、代々酒造業を営む家に父菊蔵・母母也須能の次男として生まれる。
1899年 叔父を頼って神戸中学に入学するも、家庭の事情により8カ月で中退。同年12月には一家で福岡県遠賀郡八幡村大字枝光に転居。
1902年 家出し上京、早稲田実業学校専攻科に入学。
1905年 『中学世界』に応募した『筒井筒』が第一賞入選し、初めて“夢二”の筆名を使う。早稲田実業学校専攻科を中退する。
1907年 岸たまきと結婚、読売新聞社に入社し時事スケッチを担当する。たまきをモデルに“夢二式美人”が生まれる。
1909年 たまきと戸籍上離婚。最初の著作『夢二画集 春の巻』を刊行し、ベストセラーとなる。
1912年 雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原子を発表する。
1918年 東京に戻る。バイオリニスト多忠亮が『宵待草』に曲をつけ、セノオ楽譜から発刊され、全国的にヒットする。
1931年 新宿三越で「竹久夢生展覧会」を開催する。5月横浜を出港しホノルルを経由してアメリカへわたる。
1933年 ヨーロッパへと渡り、ドイツ・チェコ・オーストリア・フランス・スイスを巡りベルリンに滞在したのち、神戸に帰国した。渡欧中に日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチを残した。11月帰国後、結核を患う。
1934年 長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に入院し、「ありがとう」の言葉を最後に49歳で亡くなる。