戦争画絵画
ART

戦争画とは?「アッツ島玉砕」などの有名作品・戦争時代を生きた画家について詳しく解説

 

戦時中において、美術作品は身分の高い人物の肖像画や戦争の記録などを描くことでプロパガンダとしての役割を担うことが少なくありませんでした。

日本では古来から戦争を描いた絵画が存在し、主に戦争賛美や記録の目的で描かれたと言われています。

政治と密接にかかわっていた戦争画の役割や戦争画を描いた画家たち、知っておきたい戦争画について紹介します。

 

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戦争画とは

戦争を題材にした「記録」としての絵画

太平洋戦争下の日本では、軍の宣伝や国民の戦闘心を鼓舞するために「大東亜戦争作戦記録画」として陸軍美術協会が戦争画を量産させました。

戦争賛美の国粋主義を掲げ、国家は芸術家に発注をし、派遣された画家は従軍画家として戦闘場面や出征など様々な場面が描きました。

戦争画は終戦までに約5000点制作されたと言われています。

これらの戦争画は「支那事変海軍従軍画家スケッチ展」、「聖戦美術展」、「大東亜戦争美術展」、「戦争記録画展」として全国で巡回開催されました。

戦争の様子を知る術を持っていなかった国民にとっては、戦争画は戦意を高揚させるものだったのです。

 

画家にとっての「戦争画」

政府からの依頼と自身の葛藤

藤田と戦争画 ソース

戦時中、西洋の風景や風俗を描いた作品は敵国賛美のものとして扱われていたため、画家たちはテーマを変えざるを得ない状況にありました。

軍は国のためとして戦争賛美をテーマとした絵画を制作するよう画家たちに命じます。

拒否することは非国民として検挙される恐れがあったため並大抵のことではありませんでしたが、敗戦し戦争が終わると戦争画はプロパガンダと捉えられることに。

GHQが153点の戦争画を押収したことで、戦争画という作品そのものに批判が集中します。

戦後の価値観の変化により、戦争画家として名声を高めた藤田嗣治は日本画壇から批判され、「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」との言い残し、フランスに渡った後日本の地を踏むことは二度とありませんでした。

戦争画は画家たちにとって葛藤を呼ぶものだったと言えるでしょう。

 

従軍画家になる経緯とその後

太平洋戦争時、年齢や障害などで召集されなかった画家や自ら従軍画家として志願した画家、陸軍海軍に命じられ従軍画家として戦地に赴いた画家などその立場はさまざまでした。

従軍画家たちは、実際に戦闘の場や前線に出た兵士たちに取材を行って制作していたと言われています。

シュールレアリズム風や宋元画風の作品を描いた靉光(あいみつ)は、日本画壇から将来を嘱望されていた画家の一人でした。

しかし「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。」という発言が問題視されて徴兵され、送りこまれた上海で戦病死という壮絶な最期を遂げます。

画家たちにとって戦争画は、過酷な運命と常に隣り合わせの状況を作り出す存在でした。

 

画家個人の考えを表現した作品も

中には、戦中の市街地の様子や、戦中・戦後の荒れ果てた風景を戦後になってから描いた画家も大勢います。

丸木位里・俊夫妻は、広島に原爆が落とされた数日後に現地へ向かい、自らの体験や家族などから聞いた話を元に「原爆の図」(1950年-1982年)の15作を描きあげました。

戦争に美術が加担することを良しとせず抗議した松本竣介は聴覚障害のため召集されることはありませんでしたが、戦時中の東京の街並みを描くことで当時の寂寥感を作品に落とし込んでいます。

戦時中召集され、終戦後はシベリアで拘留された経験を持つ澤田哲郎は、シベリア拘留時代の作品を多く残しました。

自身の体験をもとに戦争が社会に落とした影を描くことで、戦争による悲しみや苦しみを表現したと考えられます。

 

戦争画を描いた日本人画家と代表作品

藤田嗣治

1886年東京生まれの藤田嗣治は、日本画で使う面相筆を取り入れ、乳白色の肌と呼ばれる透き通った真珠のような肌の裸婦像を描いた画家です。

第二次世界大戦でパリが陥落する直前に日本に帰国し、陸軍省嘱託として戦争画を描くようになります。

トレードマークのおかっぱ頭を丸刈りにし、戦争協力洋画界の重鎮として活躍しましたが、敗戦後は戦争協力画家として日本画壇からスケープゴートに近い形で責任を追及されることに。

かねてより藤田嗣治のファンであった占領軍GHQ所属出版・印刷担当者のフランク・E・シャーマンの助けを借りて、失意の中アメリカに渡り、フランスへ戻った後に帰化。

日本へ戻ることなく1968年に81歳で亡くなりました。

 

「アッツ島玉砕」

制作年 1943年

「アッツ島玉砕」は1943年、アメリカ・アラスカのアリューシャン列島の西端にあるアッツ島にて、アメリカ軍の上陸を機に開戦した戦いを描いています。

縦193.5cm、横259.5cmという巨大なキャンバスに、日本軍とアメリカ軍の戦闘シーンを迫力ある筆致で描きあげました。

17日間の戦闘の末に日本軍は全滅し、この時大本営が初めて玉砕という言葉を使いました。

雪が積もる中、日本兵は日本刀と銃剣を携え、アメリカ兵士に立ち向かっていく群像を描いています。

日本兵とアメリカ兵の判別が難しいほど大勢の兵士たちが絡み合う様子に言葉を失うこの作品は、展示されていた当時絵の前に賽銭箱が置かれ、ひざまずいて涙を流し手を合わせる人が絶えなかったと言われています。

 

「サイパン島同胞臣節を全うす」

制作年 1945年

1994年にマリアナ諸島サイパン島で開戦した日米の戦闘で、日本軍は全滅し、追い詰められた大勢の民間人もスーサイドクリフやバンザイクリフ(戦後に名付けられた名称)の崖から身投げし自決しました。

敗戦が濃厚になってきた時期に発表されたこの作品は、敵愾心をあおり、戦意昂揚を目的とされていましたが、死と向き合う人々の姿は宗教画の鎮魂のようにも見えて、生命の重さを感じさせる反戦画との二面性があると評されています。

「サイパン島同胞臣節を全うす」は藤田が描いた最後の戦争画になりました。

 

宮本三郎

1905年石川県生まれの宮本三郎は、陸軍幼年学校を目指すも失格してしまったため画家を目指しました。

川端画学校で藤島武二の指導を受け、のち安井曾太郎に師事し、1938年から翌年まで渡欧してパリのアカデミー・ランソンなどで学びました。

太平洋戦争中には陸軍省嘱託として小磯良平らと共に中国へ従軍し、戦後は熊谷守一、田村孝之介らと二紀会を創立して理事長を務めています。

的確な写実と華麗な色彩を生かした作風で、代表作は舞妓や裸婦の連作など。

油絵だけではなく獅子文六の『南の風』(朝日新聞連載)、石川達三の『風そよぐ葦』(毎日新聞連載)などの挿画も多く手がけていました。

 

「山下、パーシバル両司令官会見図」

制作年 1942年

1942年、当時イギリスの植民地であったシンガポールで日本軍とイギリス軍の戦闘がありました。

日本軍は2倍の兵力差で難攻不落と呼ばれた要塞を10日間で攻略し、続けてマレー半島も制圧しました。

シンガポール制圧後に行われた締結会見の様子を描いた作品で、イギリス軍側はイギリス軍司令官のアーサー・パーシバル陸軍中将、日本軍は山下奉文陸軍大将が出席していることが分かります。

宮本三郎は会見には同席しておらず、制作を請け負った後、両司令官をスケッチ取材したと言われています。

 

「ニコルソン付近の激戦」

制作年 1942年

1941年、当時イギリスの植民地だった中国・香港の九龍半島を占領した香港島へ向けて砲爆撃を開始した日本軍は、イギリス軍と対戦しました。

日本軍がイギリス軍を東西に分断した結果、香港島西部の陣地にあったヤング総督とマルトビイ少将が白旗をあげたため停戦となりました。

「ニコルソン付近の激戦」は、その時の日本軍とイギリス軍の激しい戦いを写実的に描いた作品です。

 

小磯良平

1903年兵庫県生まれの小磯良平は、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学し、1926年に「T嬢の像」で帝展の特選を獲得した後、東京美術学校を首席で卒業しフランスへ留学しました。

1936年に帰国後、藤田嗣治とともに陸軍省嘱託として中国に渡り、戦争画を手掛けるようになりますが、戦後は自身の戦争画を画集には掲載せず、「戦意高揚のために戦争画を描いてしまったことに心が痛む」と語っています。

赤坂迎賓館の壁画制作、東京藝術大学教授を務めるなど長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献し、名誉教授を授与されました。

1988年、享年85歳で死去。

 

「娘子関を征く」

制作年

1941年

1937年に起こった盧溝橋事件後、中国の山西省北部・太原周辺で開戦された日本軍と中国軍の戦闘。

その勝敗を決めたのが忻口と娘子関での戦いです。

板垣兵団を中心に日本軍は総攻撃を開始して太原を陥落させますが、荒れた山野を背景にこれから山岳戦に侵攻する日本兵たちを描いたのがこの作品です。

「娘子関を征く」は第二回聖戦美術展に出品され、戦争を描いた群像画として戦時下の高い評価を得て第1回帝国美術院賞を受賞しました。

 

「南京中華門の戦蹄」

制作年 1939年

第二次上海事変が拡大し、当時の中華民国の首都南京で展開されていた1937年、南京城は日本軍の手により陥落しました。

煙の上がった南京城を、銃剣を抱えた日本兵たちが眺めている様子を描いた作品。

疲れ切った様子で座り込む兵士や煙草を吸っている兵士など、戦闘後の放心したような姿が印象的です。

1940年に「南京中華門の戦闘」は朝日文化賞を受賞しましたが、戦後所在不明になっています。

 

中村研一

1985年福岡県生まれの中村研一は、画家を志望するも父に許されず、第三高等学校の受験準備の名目で京都に出て鹿子木孟郎の内弟子となりました。

父の許可が出た後に東京美術学校西洋画科に入学して洋画を学んだ後、パリへ留学。

帰国後は従軍画家として活動しました。

少なくとも17点の戦争画を制作したとされていますが、1945年の東京大空襲によって代々木の住居とアトリエが焼失してしまい、作品群も失われてしまいました。

帝展や日展で活躍し、アカデミックで写実的な画風が高い評価を得た画家です。

 

「コタ・バル」

制作年 1942年

1941年12月8日、真珠湾攻撃の一時間前に日本軍はマレー半島北端のコタ・バルへの上陸作戦を開始していました。

従軍画家として活動していた中村研一は、1942年にシンガポールからインドシナへの旅行中にコタ・バルに15日間滞在し、「コタ・バル」を描くために現地の同じ月齢の夜に取材を行ったと言われています。

深夜の月の光の中敵陣に向かっていく兵士の姿を敵側の視点から描き出した迫力ある構図は高い評価を受け、第一回大東亜戦争美術展の朝日文化賞を受賞しています。

 

「マレー沖海戦」

制作年 1942年

1941年、マレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われたマレー沖海戦。

日本海軍航空隊がイギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈し、航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の海戦として知られています。

「マレー沖海戦」は、日本海軍航空隊がイギリス軍の2つの戦艦を攻撃しているシーンを描いたもので、戦争画の中でも特に有名な作品です。

中村研一は人物や風景だけでなく軍艦や戦闘機、海戦の描写にも長けていたため、陸軍や海軍からの依頼が多かったと言われています。

 

小早川秋聲

1885年鳥取県生まれの小早川秋聲は、住職の息子として9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入ったものの、画家になる夢を諦められず20歳で四条派に属する谷口香嶠の画塾「自邇会」に入ります。

その後水彩画を学ぶため中国に渡り、ヨーロッパやインド、エジプト、アメリカなど当時の日本人にしては珍しく世界中を旅した画家でした。

1931年の満州事変後から日本画家の代表として従軍し、中国や東南アジアなどの戦地に度々派遣されます。

画業を続ける一方で、特科隊一年志願兵として騎兵連隊に入隊し、僧籍を持った陸軍中尉という異色の経歴を持った画家でした。

戦地で戦死者を弔いながら取材を続け、戦後は画壇から離れて主に宗教画を制作しています。

 

「国之楯」

制作年 1944年

黒い画面いっぱいに描かれているのは、手を胸の前で組んで横たわっている軍服を着た男性。

体に立てかけるように日本刀が置かれ、頭部に出征旗が被せられていることからこの男性が亡くなっていることが分かります。

この作品は陸軍からの依頼を元に描かれた作品でしたが、戦死した兵士の死を悼んでいるように見えることから、戦意高揚の役割にそぐわないと陸軍から受け取りを拒否されたと言われています。

元々は舞い落ちている桜を描いた背景は、のちに黒く塗りつぶされたと言われ、鎮魂の祈りとともに戦争の悲惨さを見る者に訴えかけてくる作品です。

 

松本竣介

1912年東京都生まれの松本竣介は、都会の風景を好んで描いた画家として知られています。

小学校入学時に患った脳脊髄膜炎の影響で中学に上がった時に聴力を失いますが、16歳で画家を志して太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)へ通い始めました。

聴覚障害のため徴兵されず、1941年に美術雑誌「みづゑ」に掲載された座談会記事「国防国家と美術ー画家は何をなすべきか」を受けて執筆した、画家の社会に対する基本的態度に関する「生きてゐる画家」が掲載されたのを機に「抵抗の画家」と評されるように。

しかし戦意高揚のためのポスターを手掛けていることから、近年はこの評価はされなくなってきています。

戦後にパリ移住を計画していましたが、結核にかかり36歳の若さで死去しました。

 

「立てる像」

制作年 1942年

「立てる像」は松本竣介の代表作です。

街並みを背景として、道の真ん中で仁王立ちをする青年が描かれています。

この作品は太平洋戦争の翌年に描かれ、寂寥感のある背景に立つどこか視点の定まらない、しかし意志の強い目を持つ人物は松本竣介自身とも言われています。

「生きてゐる画家」の随筆によって抵抗の画家という評価をされていた頃に描いたことから、人間の尊厳や言論統制に対する自分なりの考えを絵として表現したという見方もあるようです。

 

戦争画が鑑賞できる美術館

東京国立近代美術館

戦争画の多くは戦後GHQから接収されアメリカに渡りましたが、1970年に日本に無期限貸与という形で返還されました。

東京国立近代美術館では返還された戦争画約150点を修復し、「MOMATコレクション」と呼ばれる常設展示室で展示しています。

「山下、パーシバル両司令官会見図」「アッツ島玉砕」などが鑑賞可能です。

 

東京国立近代美術館詳細

開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)

     毎週金曜日・土曜日/10:00~20:00(入館は19:30まで)

休館日:月曜日 、展示替期間、年末年始

入館料: 所蔵作品展の場合大人500円 大学生250円 

     高校生以下18歳未満・65歳以上は無料

 

向井潤吉アトリエ館

東京都の世田谷美術館分館にある向井潤吉アトリエ館は、従軍画家として知られている向井潤吉(1901-1995)自作の油彩画やデッサンなど660余点が展示されています。

向井のアトリエ兼住居を世田谷区に寄附し、美術館として改装した上で1993年に世田谷美術館の分館として開館しました。

向井潤吉アトリエ館の展覧会では、向井潤吉が当時の多くの画家たちと同じように従軍画家として描いた戦争画が展示されていることがあります。

 

向井潤吉アトリエ館詳細

開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)

休館日:月曜日 、展示替期間、年末年始

入館料: 大人200円 大高生150円 小中生・65歳以上100円

 

もっと戦争画について知ることのできる本

画家たちの「戦争」

日中戦争から太平洋戦争までの時代に戦争画を描いた藤田嗣治、小磯良平、小早川秋聲など23人の画家たちについて書かれた一冊です。

画家によって戦争画とは何であったのか、いまだ評価の定まらない、一括展示も行われたことがない戦争画について、戦争画の存在の意味を多角的な視点から分析しています。

画家たちの「戦争」

2,200円 (税込)

出版社 ‏ : ‎ 新潮社 (2010/7/1)

 

戦争画とニッポン

美術評論家の椹木野衣と、美術家の会田誠の対談集。

会田誠は「戦争画RETURNS」のシリーズで日本近代美術史がタブーとしていた戦争画に焦点をあてた美術家です。

美術的観点から、また戦時下の中を生きる人々の思想、国家と画家の関り方、2人のプライベートな視点で戦争画について語っています。

戦争画を画家からの目線で語る珍しい一冊。

戦争画とニッポン

2,200円 (税込)

出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2015/6/24)

 

絵具と戦争

藤田嗣治を中心に向井潤吉、宮本三郎らの戦争画と従軍記をまとめた一冊です。

戦いの前線ではどのようなことが行われていたのか、戦争画に対する日本画壇などの美術界の動向はどうだったのか、なぜ戦争画をGHQが接収したのか、戦争画の不都合さとは何なのかなど、戦争画と戦争責任の関係性について調査されています。

絵具と戦争―従軍画家たちと戦争画の軌跡

1,204円 (税込)

出版社 ‏ : ‎ 国書刊行会 (2011/4/1)

 

まとめ

戦後日本ではタブー視されていた戦争画。

国粋主義の中、抵抗すれば絵の具やキャンバスの配給を止められてしまう恐れもあったため、戦時下の画家たちの思想や環境は複雑なものでした。

戦争に協力するにしても、反戦の意思があったにしても、画家たちは一人の芸術家としての矜持を持ちながら必死に描いた事実は変わりません。

戦後80年近く経った今でも、戦争画は私たちに静かに平和の大切さを伝え続けています。

 

 

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