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ART

知っておきたい世界の有名画家40人と代表作品を分かりやすく解説

 

あなたは「画家」と聞いて、誰が思い浮かびますか?

ピカソやゴッホなど画家の名前は知っていても、彼らがどんな作品を残し、作品のどこがすごいのか「実はよくわからない…」という人も多いのでは。

「作品の見方、感じ方は人それぞれ」ともよく言いますが、美術史は知っておくと鑑賞をより楽しむことができる重要なツール。

今回は「美術史に苦手意識を感じている」「画家についてもっと知りたい」という方に向けて、世界の有名画家40名とその代表作を年代順に解説します。

この記事を最後まで読み終えたあなたは、「美術をそこそこ知っている人」になれるはず。

皆さんもアート通への第一歩を踏み出してみてくださいね。

 

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ヤン・ファン・エイク
1395年頃 – 1441年7月9日

ヤン・ファン・エイクは15世紀最高の画家と呼ばれています。

それまで主流だったテンペラ画に対して、油を主な媒剤とするヤン・ファン・エイクの油絵技法は、それまでの絵画技法に革新をもたらしたことから、「油絵の具の発明者」としても知られています。

生涯を宮廷画家および外交官として活躍し、傑作と称される絵画を多く世に送り出しました。

彼の兄であるフーベルト・ファン・エイクも優れた画家で、合わせて「ファン・エイク兄弟」と称されることもあります。

 

「アルノルフィーニ夫妻像」1434年


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ファン・エイクは、それまで主流だったテンペラよりも油彩のほうが乾燥時間が長くかかることを利用して、半透明で艶のある薄い顔料を幾層にも塗り重ねることで、空間に深い陰影・奥行きを生み出し、卓越した観察力・描写力で現実に物が存在するかのような表現に成功しました。

背景の壁面中央には「ヤン・ファン・エイクここにありき」という銘があり、さらにその下の丸い凸面鏡にはヤン・ファン・エイクの自画像と思われる人物が小さく映りこんでいます。

 

作品が見られる場所

 

サンドロ・ボッティチェッリ
1445年3月1日? – 1510年5月17日

ボッティチェッリは初期ルネサンスを代表する画家。

この後にご紹介する「ヴィーナスの誕生」もボッティチェッリの作品です。

当時の大富豪メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残しました。

 

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「ヴィーナスの誕生」1483年頃


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この絵はギリシア神話の一場面を再現した作品で、女神ヴィーナスが、成熟した大人の女性として海から誕生したシーンを描いた作品です。

登場人物は先ほどと同じで左から、西風の神ゼピュロスとニンフのクロリス。

海から誕生し貝殻に乗ったヴィーナスを、西風が強く息を吹いて岸へ運ぼうとする様子が描かれています。

右側には季節の女神が赤いローブを持ってヴィーナスを迎えています。

右側の岸辺の先には果樹園が続いており、これが「黄金のりんごの園」と呼ばれる、ギリシャの理想郷ヘスペリデスです。

 

 作品解説

 

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レオナルド・ダ・ヴィンチ
1452年4月15日 – 1519年5月2日

レオナルド・ダ・ヴィンチはご存知の通り、「モナ・リザ」や「最後の晩餐」で知られる画家です。

芸術だけでなく、機械工学、天文学、解剖学、数学、建築学など、あらゆる分野に精通していたことから、「万能人」の異名をとっています。

 

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「モナ・リザ」1503年 – 1519年頃


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レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の中で、また世界中で一番有名な絵画と言っても良いかもしれません。

モナ・リザのモデルは、フィレンツェの富裕な商人で、行政官も務めたフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだとされています。

その謎めいた微笑みや、立体描写の繊細さ、雄大な背景のスケール感など、その当時の油絵としては革新的な表現のこの絵は、現代においてもたくさんの人々を魅了し続けています。

 

 作品解説

 

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ヒエロニムス・ボス
1450年頃 – 1516年8月9日

ヒエロニムス・ボスは、北方ルネサンスを代表する画家です。

その奇妙な画風から「怪奇幻想の画家」と呼ばれています。

その画風は、のちにバベルの塔を発表するピーテル・ブリューゲルにも影響を与え、シュールレアリズム絵画にもその影響は続いています。

彼のほとんどの作品が16世紀の宗教改革運動での偶像破壊のあおりを受けて紛失してしまったため、現在はわずか30点ほどになってしまいました。

 

「快楽の園」1503年-1504年


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「快楽の園」は、ヒエロニムス・ボスの作品の中で最も有名な作品です。

三つのパネルが観音開きになった祭壇画の形式をとっていますが、他に類を見ない異端の祭壇画であることから、どんな目的でこの絵が制作されたのか、長年議論が続いています。

異形の生き物や、あらゆる人間の欲望、煩悩を表した世界感で観るものをいつまでも惹きつけてやまない作品です。

 

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アルブレヒト・デューラー
1471年5月21日 – 1528年4月6日

アルブレヒト・デューラーは、ドイツを代表するルネサンス期の画家。版画家、数学者としても活躍しました。

デューラーの制作における関心は生涯を通して、遠近法、解剖学、人体均衡論に向いており、彼の作品からは徹底的にリアリティーを追求していたことを伺い知ることができます。

彼の制作した版画は当時多くの反響を呼び、ラファエロ・サンティレオナルド・ダ・ヴィンチとも親交がありました。

銅版画の傑作である『騎士と死と悪魔』、『メランコリアI』、『書斎の聖ヒエロニムス』などの作品を残しました。

 

「メランコリアI」1514年

「メランコリア I」は、アルブレヒト・デューラーの代表作と言われる銅版画です。

『四体液説』における人間の4つの性格の一つ「憂鬱」をテーマにしたもので、天使が憂鬱に沈んでいる様子が描かれています。魔方陣や寓意的な画題がいくつも描かれており、様々な解釈があります。

砂時計の隣には4×4のユピテル魔方陣が描かれており、この中には、彼自身が偉業を達成した制作年の1514が埋め込まれています。

また、縦、横、斜めのいずれの列も和が等しくなるように数字が並べられており、右上、右下、左上、左下のそれぞれ2×2の四マスも、中央の2×2の四マスも、上下辺及び左右辺のそれぞれ四マスも、隅の四マスも、いずれも和が34になっています。

 

ミケランジェロ・ブオナローティ
1475年3月6日 – 1564年2月18日

ミケランジェロは、レオナルド・ダ・ヴィンチと並んで有名なルネサンス最盛期の画家です。

絵画以外にも彫刻、建築、詩の分野において作品を残しています。

彼の代表作としては同じくシスティーナ礼拝堂内にある「最後の審判」や、彫刻作品「ピエタ」などが有名です。

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「アダムの創造」1511年頃


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「アダムの創造」は、ミケランジェロがヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天上に描いたフレスコ画の一部で、天井のちょうど一番中央に位置しています。

旧約聖書の『創世記』に記された神が、最初の人類たるアダムに生命を吹き込むシーンを描いています。

神とアダムの指先が今にも触れようとしている場面は、人間性や世界の始まりをダイナミックで感動的に表現しています。

ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井画制作の完成までに約4年の歳月を費やしました。

 

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ラファエロ・サンティ
1483年4月6日 – 1520年4月6日

ラファエロ・サンティは、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家であり建築家です。

ラファエロの作品は雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価されており、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれています。

多くの作品がバチカン宮殿に残されており、とくに「ラファエロの間」と総称される4部屋のフレスコ画は、ラファエロの最盛期作品における最大のコレクションとなっています。

 

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「アテナイの学堂」1509年 – 1510年


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バチカン宮殿に残されているラファエロの代表作「アテナイの学堂」。

絵の中には古代ギリシアの哲学者たちと神話に登場する神々が見事な遠近法で描かれており、中央向かって右がアリストテレス、左がプラトンと言われています。

ラファエロは柱やアーチを多く描くことで、まるで古代ギリシャの偉人たちが壁の向こうに存在するかのような壁画の制作に成功しました。

 

 作品解説

 

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ピーテル・ブリューゲル
1525年-1530年頃 – 1569年9月9日没

ピーテル・ブリューゲルは、ヒエロニムス・ボスと並んでフランドル絵画を代表する画家。

現在、ブリューゲルの油絵は40点ほど知られています。農民たちの生活を多く題材にしたことから「農民画家」とも呼ばれました。

ブリューゲルの一族は他にも多くの画家を輩出しています。

 

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「バベルの塔」1565年


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「バベルの塔」は、旧約聖書の『創世記』11章元に制作された作品です。

そこには、「遠い昔、言葉は一つだった。神に近づこうと人間たちは天まで届く塔を建てようとした。神は怒り、言われた。“言葉を乱し、世界をバラバラにしよう”。やがてその街は、バベルと呼ばれた。」と書かれています。

世界を1つの絵画の中に凝縮したような、その驚異的な描写力とスケール感が多くの人を魅了しています。

ブリューゲルが描いた「バベルの塔」はもう1つ、このバベルの塔を完成したすぐ後に、大きなサイズのキャンバスに描かれた作品があり、それぞれに「小バベル」「大バベル」と呼ばれています。

どちらの作品が優れているか、は見る人の好みよっても変わりますが、異常なまでの描き込みが目を引くこちらの作品の方が優れている、と判断する人も多いようです。

 

 作品解説

 

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ジュゼッペ・アルチンボルド
1526年 – 1593年7月11日

ジュゼッペ・アルチンボルドはマニエリスムを代表する画家の1人です。

緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めて描いた、奇妙な肖像画の作者として知られています。

イタリアのミラノ出身ですが、ウィーン王室の宮廷画家として生涯を送りました。

 

「春 」1573年


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「春」は春夏秋冬の四連作の中の1つです。

それぞれに、その季節の植物や野菜で構成されている他、人物の表情も、春は歯を出して微笑むような明るい表情なのに対して、冬は枯れ枝のような老いぼれた男性の姿として描かれており、それぞれに四季の特徴を肖像画という形でよく表しています。

 

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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
1571年9月28日 – 1610年7月18日

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは、バロックを代表するイタリアの画家です。

映像的な写実性と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えました。

卓越した表現力とは裏腹に、気が荒く乱暴な性格で、当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどの人物でした。

一時はローマで最高の画家と謳われたカラヴァッジオですが、殺人を犯したためローマから追放。

しかしそれ以後も彼への絵の依頼は絶えませんでした。初めて殺人を犯した画家としても知られています。

 

「聖マタイの召命 」1599年 – 1600年


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「聖マタイの召命」はカラヴァッジオの出世作であり、美術史上ではバロック美術への扉を開いた作品です。

「聖マタイの殉教」「聖マタイの霊感」と並ぶ三連作で、ローマのフランス人管轄教会サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会内のコントレー聖堂に掲げられました。

公開された当時、両作品は大評判となり、一目見ようと人々が教会に殺到したと言われています。

『マタイによる福音書』9章9節にある、イエスが収税所で働いていたマタイに声をかけ、マタイがイエスの呼びかけにこたえてついていったというシーンが描かれています。

窓から射し込む光に登場人物が照らし出され、劇的なシーンを描くことに成功しています。

 

作品が見られる場所

サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会

 

ディエゴ・ベラスケス
1599年6月6日(洗礼日) – 1660年8月6日

ディエゴ・ベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代を代表する画家です。

フェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描きました。

ほとんどの期間を宮廷画家として過ごしたため、現在においても作品のほとんどがプラド美術館の所蔵となっています。

 

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「ラス・メニーナス」1656年


ソース

「ラス・メニーナス」はフェリペ4世時代、マドリード宮殿の大きな一室に集まる宮廷人を描いた作品です。

幼いマルガリータ王女を取り囲んでいるのは、お付きの女官、侍女、目付役、2人の小人と1匹の犬。彼らの背後には、大きなキャンバスを挟んで画家ベラスケス自身が描かれ、さらに一番奥の鏡には、王と王妃の上半身が映っています。

マルガリータ王女を含め、使用人の何人かがカンバスの中からこちらに意識を向けているのをお分かり頂けるでしょうか。ベラスケス自身の視線は、絵の中からこちら側にいる鑑賞者の方向に向けられています。

鏡の中の王と王妃は、この中では絵画の外、つまり鑑賞者と同じ場所に立っている事になり、鑑賞者は自然と絵画空間との距離を意識させられる形になります。

描写力だけでなく、こうした複雑な構造がこの絵画を有名たらしめた要因の1つとなっています。

 

 作品解説

 

作品が見られる場所

 

レンブラント・ファン・レイン
1606年7月15日 – 1669年10月4日

レンブラント・ファン・レインは、バロックを代表する画家の一人です。

光と影の明暗を巧みに描いた作品で知られており、「光の画家」「光の魔術師」とも呼ばれています。

肖像画家として早くから名声を得た彼ですが、人生の不幸と浪費癖が災いして無一文になるなど、その人生は壮絶なものでした。

 

「夜警」1642年


ソース

「夜警」はレンブラントの代表作であり、オランダ黄金時代の絵画の傑作です。

この絵は題名となった市民隊が出動する瞬間を描いています。

レンブラントはキアロスクーロ(明暗法)を用いて絵の登場人物にドラマチックな表情を与えました。

表面のニスが変色し黒ずんだため、夜の風景を描いた絵であるという誤った印象を与えるようになりましたが、20世紀に入ってから二度の洗浄作業でニスが取り除かれた際に、昼を描いた絵であることが明らかになりました。

 

作品が見られる場所

 

ヨハネス・フェルメール
1632年10月31日- 1675年12月15日

ヨハネス・フェルメールは、ベラスケスと並んでバロックを代表する画家です。

現存する彼の作品は、33〜36点と少なく、寡作の作家として知られています。

彼の作品は、生前には人気もあり高値で取引されていましたが、あまりに寡作だったことと、個人コレクションだったこと、画題が平凡だったことなどから、次第にフェルメールの名は急速に忘れられていきました。

19世紀以降、平凡な画題の絵画が主流として認められ始めると、再び彼の作品は脚光を浴びるようになります。

その映像的な描写表現から、フェルメールは描画の参考とするためカメラ・オブスクラを用いていたという説もあります。

 

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「真珠の耳飾りの少女」1665年


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「真珠の耳飾りの少女」はヨハネス・フェルメールの代表作で、「青いターバンの少女」という名前でも親しまれています。

絵画に描かれたモデルの中では「モナ・リザ」の次に有名な女性かもしれません。

同じく彼の代表作「レースを編む女」や「牛乳を注ぐ女」を見てもわかる通り、卓越した描写力もさることながら、外界からの光を鋭く人物に当て、画面全体に感動的な光を生み出しています。

 

 作品解説

 

作品が見られる場所

 

フランシスコ・デ・ゴヤ
1746年3月30日 – 1828年4月16日

ゴヤは、ベラスケスと並んでスペインを代表する画家です。

40歳でスペイン国王カルロス3世付きの画家となり、ベラスケスと同じく宮廷画家として生きました。

40歳代にさしかかり、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤですが、不治の病に侵され聴力を失います。

ゴヤの代表作として知られている「我が子を食らうサトゥルヌス」「着衣のマハ」「裸のマハ」などはいずれも、ゴヤが聴力を失ってから描いたものです。

ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、スペイン独立戦争が開始した動乱の時期、歴史絵画として有名な「マドリード」を残しました。

 

「我が子を食らうサトゥルヌス」1819-1823年


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「我が子を食らうサトゥルヌス」は、ローマ神話に描かれている「農耕神サトゥルヌスが「将来自分の子に殺される」という予言に恐れを抱いて5人の子を次々に呑み込んでいった」という伝承をモチーフにした作品です。

自己の破滅に対する恐怖から狂気に取り憑かれ、伝承のように丸呑みするのではなく自分の子を頭からかじり、食い殺す凶行に及ぶ様子がリアリティを持って描かれています。

この作品が発表される前に、画家ルーベンスが同じ場面を描いた作品を描いていますが、狂気に満ち見開かれた眼や、グロテスクな表現が卓越したこちらの作品は、鑑賞者に特に強い印象を与えます。

 

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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
1775年4月23日 – 1851年12月19日

ウィリアム・ターナーは、イギリスのロマン主義を代表する画家です。水彩画家としても有名ですね。

風景画家として芸術家としての道をスタートし、24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員となりました。

イタリアに旅行した後の作品は大気と光の表現を追求することに主眼がおかれ、そのために描かれている事物の形態があいまいになり、ほとんど抽象に近づいている作品も発表するようになりました。

油彩画の大作を発表するかたわら、フランス、スイス、イタリアなどヨーロッパ各地を旅行して多数の風景写生のスケッチを残しました。

 

「雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道」1844年


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「雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道」はロイヤル・アカデミーに発表された作品で、鉄道での移動中、大雨に見舞われたターナーが、車窓から身を乗り出して雨に打たれながら描いたと言われています。

輪郭線が曖昧になった、抽象画に近い表現で荒々しい空気、雨の霧しぶき、強く吹いている風などが見事に表現されています。

ターナーの大気を描き出す絵画手法、光を波長順に分離して描くスペクトル技法は、後のクロード・モネなど印象派の画家たちに影響を与えたと言われています。

 

作品が見られる場所

 

ジャン=フランソワ・ミレー
1814年10月4日 – 1875年1月20日

ミレーは写実主義を代表する画家の1人です。

ミレーは、コローや他の画家とともに、都市を出て田園を取材した作品を多く制作しました。

彼の代表作「種まく人」や「晩鐘」にも代表されるように、特にミレーは働く農民の生活への関心が強く農民画を多く制作しています。

ゴッホに一番影響を与えた画家としても有名です。

 

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「落穂拾い」1857年


ソース

「落穂拾い」は、パリの政治的混乱やコレラを避けて、当時芸術家たちの集まっていたバルビゾン村に疎開したミレーが描いた農民画の一つで、バルビゾン派絵画の代表作に位置付けられています。

ただ農村の貧しい人々の姿を描いた作品ではなく、その画題は『旧約聖書』の「ルツ記」に基づいており、ニコラ・プッサンも同じ画題の作品を残しています。

旧約聖書「レビ記」19章9節から10節には、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。…これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」と記されています。

 

 作品解説

 

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ジョン・エヴァレット・ミレー
1829年6月8日 - 1896年8月13日

ジョン・エヴァレット・ミレーは、イギリス古典絵画を代表する画家です。

11歳でロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校に史上最年少での入学を許可され、わずか16歳でロイヤル・アカデミーの年次展に入賞するという優等生でしたが、アカデミーの教育方法や画壇への反発をつのらせていた画家、詩人たちと「ラファエル前派」を結成しました。

 

「オフィーリア」1851年 – 1852年


ソース

「オフィーリア」は、ジョン・エヴァレット・ミレーの代表作です。

オフィーリアはウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物で、この作品では彼女がデンマークの川に溺れてしまう前、歌いながら川に浮かんでいる姿が描かれています。

彼はこの作品を制作するために、実際の小川へ行って屋外で数ヶ月かけて描いたり、オフィーリアの部分は自宅のバスタブで、モデルにポーズをとらせたという逸話が残っています。

初めてこの絵がロイヤル・アカデミーに展示されたときには広く評価されませんでしたが、後に精緻な草花の描写や自然の風景の正確な描写を賞賛されるようになりました。

 

作品が見られる場所

 

エドゥアール・マネ
1832年1月23日 – 1883年4月30日

マネは印象主義的な要素の濃い作品もあることから、印象派の先駆者として位置付けられています。

若い印象派の画家たちから敬愛を受け、伝統的な約束事にとらわれない造形という点でも印象派に影響を与えました。

モネは、マネの「草上の昼食(水浴)」に発想を得て、同様の主題で「草上の昼食」を制作したと言われています。

マネの絵画には、1860年代から流行したジャポニスムの影響も指摘されています。

「エミール・ゾラの肖像」の背景には、日本の花鳥図屏風と浮世絵が飾られており、浮世絵への関心を伺うことができます。

マネの場合、単なる異国趣味として浮世絵を取り入れただけではなく、造形の中にこれを生かしているのが特徴的です。

「笛を吹く少年」の平面的な彩色には、ベラスケスからのほかに、浮世絵からの影響もあると言われているほか、「ボート遊び」の、水平線をなくし背景全体を水面とした構図、モティーフを切り取る手法にも日本風の空間表現が伺えます。

 

「オランピア」1863年


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マネはこの作品をのサロンに出品し、作品自体は入選しましたが、「草上の昼食」と同様に「現実の裸体の女性」を描いた事が批判されました。

その理由として、「オランピア」という名が当時の娼婦の通称であったこと、花束を持った黒人の女性が裸体の女性の召使として描かれていること、裸体の女性が当時の娼婦を表している事が明らかであった事が批判の対象となりました。

マネは日本の浮世絵の影響を受け、奥行きのある空間表現や立体感をつけるための陰影をこの絵の中では切り捨てています。

ラファエロのような伝統的絵画が賞賛された時代に、低俗な女性像を描き、しかも絵が平坦なために当時は大変な酷評を受けました。

 

作品が見られる場所

 

エドガー・ドガ
1834年7月19日 – 1917年9月27日

エドガー・ドガは、印象派を代表する画家の一人です。

ドガの関心の対象は徹底して都会生活とその中の人間にあり、裕福な家庭の出身であったドガはバレエを好み、バレエを主題に扱った作品を多く残しました。

楽屋や練習風景、舞台袖といった一般人では出入りできない場所に入り、踊り子たちの舞台裏をありのままに描きました。

 

「Ballet Rehearsal」1874年


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「Ballet Rehearsal」は、バレエのリハーサル風景を描いた作品です。

踊り子たちの一瞬の動きを、巧みな陰影表現で映像のようにリアリティーのある空間に仕上げています。

モデルの自然な仕草をスケッチし、アトリエに戻って絵を仕上げるという描き方は、ピカソやロートレックなどの画家に大きな影響を与えました。

晩年は視力の衰えもあり、デッサン人形として使用した踊り子、馬などを題材とした塑像や彫刻作品も残しています。

 

作品が見られる場所

 

ポール・セザンヌ
1839年1月19日 – 1906年10月23日

ポール・セザンヌは、ポスト印象派を代表するフランスの画家です。

当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していましたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求しました。

キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから「近代絵画の父」と称されています。

セザンヌは、作品制作に時間をかけたことでも有名です。

ポーズ中に居眠りをしたモデルに対して「りんごと同じようにしていなければならない。りんごが動くか。」と怒鳴ったという話が残っています。

形態の喪失という印象派の問題点を克服するために、輪郭線の復活によって対処しようとしたルノワールとは異なり、セザンヌは、物の形を面取りするように、キャンバス上に小さい色面を貼り合わせたように乗せ、立体感を強調しました。

明暗や量感を表現する代わりに、肌の質感や輝きは、切り捨てられています。

彼の「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、幾何学的な形態への還元を示唆するものと解釈され、後のキュビスムに影響を与えました。

 

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「台所のテーブル(籠のある静物)」1888-90年

セザンヌは晩年、「自然にならって絵を描くことは、対象を模写することではない、いくつかの感覚を実現させることだ」と述べていました。

「果物籠のある静物」では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれていたり、果物籠が横から見たように描かれていたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりといった、多くのデフォルメが生じています。

こうした多視点的な物の見方を絵画に取り込む手法が、後のキュビズムに大きな影響を与えて行きます。

 

 作品解説

 

作品が見られる場所

 

クロード・モネ
1840年11月14日 – 1926年12月5日

クロード・モネは、印象派を代表するフランスの画家です。

印象派の画家たちは、ロマン派の豊かな色彩、コローやドービニーらバルビゾン派の緻密な自然観察、クールベの写実主義と反逆精神、マネの近代性を受け継ぎながら、それまでの伝統的なアカデミズム絵画の主題、構図、デッサン、肉付法・陰影法に縛られない、自由な絵画を生み出しました。

モネは、その中でも特に屋外での制作を重視し、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」をキャンバスに再現することを追求した画家です。

絵具をパレットで混ぜずに、素早い筆さばきでキャンバスに乗せていくことで、明るく、臨場感のある画面を作り出すことに成功しました。

その後の連作では光そのものが主役の位置を占めるようになり、絵の具の物質感が残る彼の絵は、後の抽象絵画に大きな影響を与えました。

 

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「印象・日の出」1872年


ソース

「印象・日の出」はクロード・モネの代表作であると同時に、タイトルそのものが印象派の名前の由来となった、美術史上ではとても重要な意味を持つ作品です。

モネはこの作品に関して「ル・アーヴルで部屋の窓から描いた作品で、霧の中の太陽と、そそり立つ何本かのマストを前景に描いた」と述べています。

この作品が初めて展示されたのは1874年の印象派展。当時の社会からの評価は惨憺たるものでした。

評論家のルイ・ルロワは、この作品の題を見て、自身が担当する風刺新聞『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙のレビュー記事上で、この展覧会を軽蔑の念と悪意をこめて「印象主義の展覧会」と評しましたが、この命名が後に定着し、彼は意図せずに「印象派」の名付け親になりました。

 

 作品解説

 

作品が見られる場所

 

ピエール=オーギュスト・ルノワール
1841年2月25日 – 1919年12月3日

ルノワールはモネと同じく印象派の画家です。

モネが自然を愛し、風景画を描き続けたのに対し、ルノワールは人を愛し人物画を描き続けました。

光や空気を優しいタッチで表現した彼の作品は特に日本人からの人気を集めています。

他にも「ピアノに寄る少女たち」「舟遊びをする人々の昼食」などが彼の代表作として知られています。

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「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」1876年


ソース

「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」は、パリのモンマルトルにあるダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」での舞踏会を描いた作品です。

作品の登場人物たちは、ルノワールの友人たちがモデルになっています。

当時ルノワールはこのダンスホールの近くに住んでおり、アトリエから通いながら制作していました。

 

作品が見られる場所

 

アンリ・ルソー
1844年5月21日 – 1910年9月2日

ルソーは、フランスの素朴派を代表する画家の一人です。

20数年間、パリ市の税関の職員を務めながら仕事の余暇に絵を描いていた日曜画家であったことから、当時「ル・ドゥアニエ」(税関吏)の通称で親しまれていました。

「眠るジプシー女」「蛇使いの女」など代表作の多くはルソーが税関を退職した後に描かれています。

 

「熱帯嵐のなかのトラ」1891年


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ルソーの描く風景には遠近感がほとんどなく、樹木や草花は葉の1枚1枚が几帳面に描かれています。

このような一見稚拙に見える技法を用いながらも芸術性の高い、キュビズムシュルレアリスムを先取りしたとも言える独創的な絵画世界を創造しました。

彼の作品には熱帯のジャングルを舞台にしたものが多数あります。

画家自身はこうした南国風景を、ナポレオン3世とともにメキシコ従軍した時の思い出をもとに描いたと称していましたが、実際には彼は南国へ行ったことはなく、パリの植物園でスケッチしたさまざまな植物を組み合わせて、幻想的な風景を作り上げたと言われています。

 

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ポール・ゴーギャン
1848年6月7日 – 1903年5月8日

ポール・ゴーギャンは、フランスのポスト印象派を代表する画家の一人です。

ゴッホとの交友も深く、一時は南仏アルルの「黄色い家」で一緒に暮らしていたことでも有名です。

「耳切り事件」と同じ日にゴッホに剃刀を向けられ、2人はその後二度と会うことはありませんでしたが、その後も手紙のやり取りは続けていました。

ゴーギャンの傑作の多くは、1891年のタヒチ旅行以降に生み出されています。最初にタヒチを訪れて以来、彼は晩年まで多くの時間をタヒチで過ごしました。

 

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「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」1897年 – 1898年

健康の悪化と多くの借金、絶望の縁に追い込まれた時期に描かれた「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、ゴーギャンの精神世界を最も描き出している作品と言われています。

ゴーギャンはこの作品を描き上げた後に自殺を決意しており、この作品に様々な意味を持たせました。

絵画の右から左へと描かれている3つの人物群像が、この作品の題名を表しています。

画面右側の子供と共に描かれている3人の人物は人生の始まりを、中央の人物たちは成年期をそれぞれ意味し、左側の人物たちは「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」であり、老女の足もとには「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」とゴーギャン自身が書き残しています。

背景の青い像は「超越者 (the Beyond)」として描かれています。

この作品について、ゴーギャンは、「これは今まで私が描いてきた絵画を凌ぐものではないかもしれない。だが、私にはこれ以上の作品は描くことはできず、好きな作品と言ってもいい」と語っています。

 

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ジョルジュ・スーラ
1859年12月2日 – 1891年3月29日

ジョルジュ・スーラは新印象派を代表するフランスの画家で、「点描の画家」として知られています。

スーラは、印象派の画家たちの用いた「筆触分割」の技法をさらに押し進め、光学的理論を取り入れた結果、点描という技法に辿り着きました。

 

「グランド・ジャット島の日曜日の午後」1884年 – 1886年


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「グランド・ジャット島の日曜日の午後」はスーラの代表作で、点描法を用いてパリ近郊のセーヌ川の中州で夏の一日を過ごす人々を描いた作品です。

グランド・ジャット島に集う50人ほどの人物を点描で描き出したこの大作は、最後の印象派展に出品され話題となりました。

スーラはこの絵の制作に2年をかけ、習作を多数描いたり、何度も描き直したりして公園の風景に慎重に焦点をあてていきました。

彼は公園に通っては風景や人物を観察し、それらが完璧な形になるようにデッサンや油彩によるスケッチを数多く残しています。

 

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フィンセント・ファン・ゴッホ
1853年3月30日 – 1890年7月29日

画家といえばゴッホを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

彼の壮絶な人生や力強いエネルギーに満ちた作風は、印象派の中でも一線を画しています。

印象派の画家の中でもゴッホは特に日本への憧れが強く、弟テオに宛てた手紙の中で頻繁に日本への想いを綴っています。

鮮やかな色彩や大胆な構図配置は、彼が浮世絵から学んだ手法です。

日本人の多くがゴッホの絵に魅力を感じるのも、実はこうした繋がりがあるからなのかもしれません。

耳切事件のあと、彼の画風は更に強烈さを増していき、うねるような筆致が画面全体を覆うようになります。

彼が自殺を遂げた理由については、今も多くの謎が残されています。

 

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「星月夜」1889年


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「星月夜」は、ゴッホがサン=ポール・ド・モゾル修道院の精神病院で療養している時に、部屋の窓から見える日の出前の村の風景を描いた作品です。

「今朝、太陽が昇る前に私は長い間、窓から非常に大きなモーニングスター以外は何もない村里を見た」と、ゴッホは弟のテオに手紙に送った手紙の中で《星月夜》の制作背景を綴っています。

中央に描かれている教会はフランスの教会ではなく、ゴッホの故郷であるオランダの教会が描かれています。

 

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アルフォンス・ミュシャ
1860年7月24日 – 1939年7月14日

アルフォンス・ミュシャはアール・ヌーヴォーを代表する画家、グラフィックデザイナーです。

ポスター、装飾パネル、カレンダー等の版画作品を多く制作しました。

宗教的思想に裏付けられた文学的解釈、それを美へと昇華する芸術力など、独自の表現で大きな業績を残しています。

ミュシャの作品は星、宝石、花などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴的で、現代においても高い人気を集めています。

 

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「スラヴ叙事詩」1910年‐1928年


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「スラヴ叙事詩」は、ミュシャが故国であるチェコに帰国で制作した20点の絵画から成る連作です。

サイズは小さいものでもおよそ4 x 5メートル、大きいものでは6 x 8メートルに達します。

この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いています。

スメタナの組曲『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成までおよそ20年を要しています。

 

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グスタフ・クリムト
1862年7月14日 – 1918年2月6日

ウィーンを代表する画家クリムト。

官能的なテーマで描かれたクリムトの作品は、妖艶かつ荘厳な世界観が特徴的です。

彼は「ファム・ファタル(宿命の女)」をテーマとして多くの女性をモデルに作品を発表しました。

日本の能面や工芸品を収集していた彼の作品には、浮世絵琳派の影響も強く、「接吻」に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には、絵の中に金箔を多用しています。

 

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「接吻」1907-1908年


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クリムトの人気作とも言える「接吻」。

花が一面に咲く崖の上で、男女が睦まじく抱き合っています。

モデルはクリムト本人と恋人エミーリエ・フレーゲと言われています。

 

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エドヴァルド・ムンク
1863年12月12日 – 1944年1月23日

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「ムンクの叫び」の作者として世界的にも有名なノルウェー出身の画家、エドヴァルド・ムンク。

ムンクが代表作の多くを制作した1890年代は、フランスではアール・ヌーヴォー、ドイツ、オーストリアではユーゲント・シュティールと呼ばれる芸術運動が起こった時代であり、世紀末芸術と総称されています。

ゴッホゴーギャン、ルドンといったポスト印象派の画家たちが、「眼に見えない心の内部を表現する」方法として絵画を追求していったのに対し、その次の世代に当たる世紀末芸術の芸術家たちもまた、人間の心の神秘の追求に向かっていました。

ムンク自身も芸術について、「芸術は自然の対立物である。芸術作品は、人間の内部からのみ生まれるものであって、それは取りも直さず、人間の神経、心臓、頭脳、眼を通して現れてきた形象にほかならない。芸術とは、結晶への人間の衝動なのである。」と述べています。

そうした彼の絵からは、愛や死といった根源的な問題に正面から立ち向かう彼自身の精神の葛藤を感じることができます。

 

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「ムンクの叫び」1893年


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ムンクたち世紀末芸術の画家が追求した「内面の世界」は、印象派のような明るい世界ではなく、不安に満ちた闇の世界でした。

特に鋭敏な感受性に恵まれたムンクは、生命の内部に潜む説明し難い不安を表現することに才能を発揮します。

幼少時に母を亡くし、程なくして姉の死に直面した彼は、愛と死、それらがもたらす「不安」をテーマに描いた作品を多く残しました。

彼の代表作「叫び」は、そのうちの一つで、同じ構図の絵が他に4点残されています。

 

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アンリ・マティス
1869年12月31日 – 1954年11月3日

アンリ・マティスは、フォーヴィスム(野獣派)のリーダーとして活躍した画家の一人です。

野獣派の活動が短期間で終わった後も、20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けました。

自然をこよなく愛したことから「色彩の魔術師」と呼ばれています。

線の単純化、色彩の純化を追求した結果、彼の作品形態は最終的に切り絵に到達します。

一見子供の絵のように見える彼の絵は、絶妙なフォルム・輪郭線によって心地良い絵画空間を構成しています。

 

「赤のハーモニー」1908年


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マティスの最高傑作とも称される「赤のハーモニー」。

壁とテーブルクロスに塗られた赤い色面がフラットな絵画空間を構成し、植物の模様が快いリズムを生んでいます。

色と線のリズムによって構成されたフォーヴィスムを代表する絵画です。

 

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ピエト・モンドリアン
1872年3月7日 – 1944年2月1日

ピエト・モンドリアンという画家を知らなくても、彼の代表作「コンポジション」を見たことのある方は多いのではないでしょうか。

正方形で区切られた赤・青・黄の三原色のデザインは、今もなおファッションやデザインの分野に多用されています。

彼は抽象絵画を突き詰めた最初の画家の一人とも言われており、当初は写実的な風景画や静物画を描いていましたが、次第に完全な抽象へ移行していきます。

「リンゴの樹」を描いた連作を見ると、樹木の形態が単純化され、抽象に向かう過程を読み取ることができます。

表現主義の流れをくむカンディンスキーの「熱い抽象」とは対照的に、極限まで要素が排除された彼の作品は「冷たい抽象」と呼ばれています。

 

「Composition II in Red, Blue, and Yellow」1930年


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邦題「赤と青と黄色のコンポジション」として知られる、水平垂直の黒い直線と三原色で構成された連作は、モンドリアンの作品の中で最もよく知られた作品です。

現在でもファッションやデザインの分野でこの模様が使用されています。

時代を超えて評価される普遍的なデザインは、抽象表現を追求した彼の大きな功績と言えます。

 

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パウル・クレー
1879年12月18日 – 1940年6月29日

パウル・クレーは20世紀のスイスの画家、美術理論家です。

父が音楽教師、母も声楽学科を卒業している音楽一家に生まれたクレーは、幼い頃からヴァイオリンに親しみ、11歳でオーケストラに籍を置くなど、音楽の才能に恵まれていましたが、同時に絵画や文学へも興味があった彼は、最終的に絵画の道を選ぶことになります。

彼の作品には音楽の影響も強く、鮮やかな色面と詩的な画面構成は、深い物語性を感じさせます。

ワシリー・カンディンスキーらとともに「Blaue Reiter(青騎士)」グループを結成し、バウハウスでも教鞭をとりました。

表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない独自の作風を貫き、一線を画した存在の画家です。

 

「Fish Magic」1879 – 1940年

初期はアカデミックな作品を多く制作していたクレーですが、独自の表現を追求していく中で、輪郭の線そのものが重視され自由な動きが追求されるようになりました。

その後、チュニジア旅行をきっかけにクレーは鮮やかな色彩に目覚め、作風は一変しました。

彼はチュニジアでの体験を「色彩は、私を永遠に捉えたのだ」という言葉で日記に綴っています。

 

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パブロ・ピカソ
1881年10月25日 – 1973年4月8日

ピカソはキュビズムを代表する画家です。

生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家としてギネスブックに記録されています。

また、ピカソは画風が目まぐるしく変化した画家としても有名で、「青の時代」に代表されるように、それぞれの時期が「〇〇の時代」という名前で呼ばれています。

ゲルニカの時代には、女性関係に疲弊し、ほとんど筆を持つことがなかったピカソですが、ゲルニカ爆撃を知った後すぐに、絵画の制作に取りかかったと言われています。

 

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「ゲルニカ」1937年


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「ゲルニカ」は、ピカソがスペイン内戦中に描いた作品です。

ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としています。

発表当初の評価は決して高くありませんでしたが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなりました。

 

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ジョルジュ・ブラック
1882年5月13日 – 1963年8月31日

ジョルジュ・ブラックはフランスの画家で、パブロ・ピカソと並ぶキュビズムの創始者の一人です。

ピカソよりも画家としてのキャリアでは劣った彼ですが、絵画における発明の才能はピカソも一目を置くほどでした。

ブラックがセザンヌ的な描写の風景画を数点残していることから、ピカソがアフリカ芸術への挑戦からキュビスムへ発展したと言われているのに対し、ブラックはセザンヌへの挑戦からキュビスムへ発展したと言われています。

それまで遠近法を用いたアカデミックな芸術に慣れ親しんでいた大衆たちは、突然の新しい芸術に熱狂しました。

 

「Man with a Guitar」1882–1963年


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ピカソがアフリカやオセアニアの彫刻から影響を受けたのに対し、ブラックはセザンヌの絵画にヒントを得てキュビズム絵画を発表したと言われています。

晩年にかけて明るい色調の絵画を残したピカソに対し、ブラックは暗い色調の難解なキュビスム絵画を多く制作し、絵の中にしばしば文字を描くこともありました。

絵画の中に普遍的な「文字」というモチーフを挿入することで、逆説的に絵画の抽象性を増したと解釈することもできます。

 

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マルク・シャガール
1887年7月7日 – 1985年3月28日

マルク・シャガールは、20世紀のロシア出身の画家です。

生涯、妻のベラを一途に敬愛していたこと、ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから別名「愛の画家」とも呼ばれています。

キュビズム、フォーヴィズム、表現主義、シュルレアリスム、象徴主義などさまざまな前衛芸術スタイルと土着のユダヤ文化を融合した独自のスタイルを確立しました。

絵画、本、イラストレーション、ステンドグラス、舞台デザイン、陶芸、タペストリー、版画など、さまざまなジャンルで作品を残しています。

ステンドグラス作品の評価も高く、シャガールのステンドグラス作品は、イスラエルのハダーサ病院、国際連合本部、ノートルダム大聖堂、メス大聖堂のステンドグラスなどで見ることができます。

 

「私と村」1911年


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「私と村」は、キュビズムの技法を用いながら農村の風景が描かれています。

画面向かって右には男性の顔が、左には馬の顔が描かれていますが、画面のあちらこちらに記憶の中の村の風景が散りばめられています。

シャガールはキュビズムをはじめとする、複雑な空間構成を用いて、彼自身の記憶の中の幼少期の風景や、妻ベラとの愛の世界を描きました。

赤や青を基調とした大作を多く残していますが、どの作品においても白を巧みに使い、画面にステンドグラスや陶器のような感動的な光、透明感を出しているのが彼の作品の大きな特徴です。

 

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エゴン・シーレ
1890年6月12日 – 1918年10月31日

エゴン・シーレは、オーストリア出身の画家です。

保守的で時代錯誤な古典主義を継承するアカデミーに反発し、クリムトに師事するなど若い時代から独自の画風を追求し、意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多数製作しました。

性の部分などタブー視されていた部分も作品に取り込み、死や性行為など倫理的に避けられるテーマをむしろ強調するような作品を制作した画家としても知られています。

 

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「死と乙女」1915年


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「Death and the Maiden」、 邦題「死と乙女」はシーレの代表作。

画面中央で抱き合っているのは、シーレ本人と、クリムトから紹介されたモデルのヴァリです。

二人は一時期同棲関係にありましたが、シーレの奔放な女性関係に嫌気をさし二度と彼の元に現れませんでした。

第一次大戦後、画家としての名声を掴みかけたシーレですが、スペイン風邪にかかり28歳という若さで亡くなります。

 

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ベルヴェデーレ上宮

 

ジョアン・ミロ
1893年4月20日 – 1983年12月25日

ミロは、シュルレアリスムを代表する画家の一人として有名な画家です。

オブジェクトをほとんど描かず、象徴的で言語的な絵画を多く制作しました。

絵画で様々な手法を試すとともに、絵画だけに留まらずリトグラフや陶器、彫刻、巨大なモニュメント、壁画などあらゆる手段を用いて自分のイメージを表現しています。

1924年からの4年間は、夢や半覚醒状態からインスピレーションを得て100を超える「夢の絵画」を制作しました。

 

「Triptych Bleu I, II, III」1921年-1922年

「農園」はミロの初期の代表作です。

カタルーニャのモンロチの農家で見られる種々のモチーフが、写実的に描かれつつ画面上で再構成されています。

対象に真摯に向き合うほど却って幻想の世界に入り込むミロの個性がよく現われています。

友人であり、彼の最大の理解者であったヘミングウェイは絵が売れず金銭的に苦しい生活に悩むミロから、この作品を購入することで彼の生活を助けました。

「私がはじめてミロを知った頃は、彼は金もなく、食うものもなくて、9ヶ月の間、明けても暮れても『農園』と題する大作にかかりきっていた。彼はこの絵を売ることも、身辺から離すこともいやがった。」と、愛着ある作品を生活のため売らざるを得なかったミロの葛藤をヘミングウェイは記しています。

 

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マーク・ロスコ
1903年9月25日 – 1970年2月25日

マーク・ロスコは、ロシア系ユダヤ人のアメリカの画家で、ジャクソン・ポロック、バーネット・ニューマン、ウィレム・デ・クーニングらとともに、戦後の抽象表現主義を代表する画家です。

キャンバス全体を色数の少ない大きな色彩の面で塗りこめた「カラーフィールドペインティング」という表現スタイルを確立しました。

 

「赤の上の黄褐色と黒」1967年

ロスコはニーチェに哲学的な影響を受けており、現代人の精神性へ呼びかけ、創造神話に要求されるものへ対応することを絵画制作の目標としていました。

「ロスコ・スタイル」と呼ばれる作品は、全て長方形の色面で構成された象徴的な画面が特徴です。

色彩同士が響き合うように配色され、巨大なキャンバスが壁一面に飾られた展示空間は、彼の精神世界を覗いているような感覚に陥ります。

 

サルバドール・ダリ
1904年5月11日 – 1989年1月23日

サルバドール・ダリはシュルレアリスムを代表的する画家の一人です。

絵画だけでなく彫刻、映像といった様々な形で奇抜な作品を残した彼は、自分を「天才」と自称して憚らず、象に乗って凱旋門を訪れたり、また「リーゼントヘア」と称してフランスパンを頭に括りつけて取材陣の前に登場するなど、数々の奇行や逸話が知られています。

ダリはスペインのフィゲラスという地に自身の美術館を残しており、不思議な外観や、彼の作品の一部に入り込んだような面白い展示空間は一見の価値があります。

 

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「記憶の固執」1931年


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「記憶の固執」は、サルバドール・ダリの代表作であると同時に、シュルレアリスムを代表する作品でもあります。

画面に描かれている「柔らかい時計」は彼の作品の代名詞的存在です。

ダリをはじめとするシュールレアリスムの画家の多くは、本来なら「硬い」はずの時計を「軽く」て「柔らかい」ものとして描くといった、両極端なものの組み合わせで絵を構成したりして、絵画表現の変革を試みました。

ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法 」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描きました。

 

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ジャクソン・ポロック
1912年1月28日 – 1956年8月11日

ジャクソン・ポロックは抽象表現主義のを代表する画家です。

アクション・ペインティング」の創始者としても知られています。

キャンバスを床に置いて絵の具を上から滴らせるという彼の斬新な手法は、当時大きな話題となり彼は画家としての名声を獲得しますが、後年になるとアルコール依存症や不倫といった問題が彼を襲いました。

1956年ポロックは飲酒運転が原因で自動車事故を起こし死亡。彼の衝撃的な死は、後のアーティストにも強い印象を与えました。

 

「Autumn Rhythm (Number 30)」1950年


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「Autumn Rhythm (Number 30)」はポロックの代表作です。

キャンバスを床に広げ、刷毛やコテで空中から塗料を滴らせる「ドリッピング」や、線を描く「ポーリング」という技法を使って描かれており、描画行為の痕跡によって作品が作り出されています。

「このように「地」と「図」が均質となった絵画は「オール・オーヴァー」と呼ばれています。

 

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アンディ・ウォーホル
1928年8月6日 – 1987年2月22日

アンディ・ウォーホルはポップアートを代表する画家です。

銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けマルチ・アーティストとして当時のアートシーンの頂点に君臨しました。

派手な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品で表しました。

 

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「キャンベルのスープ缶」1962年


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アンディー・ウォーホルは、当時の大量生産の時代を象徴する「キャンベル・スープの缶」や「ドル紙幣」をモチーフにした作品を描き、シルクスクリーンプリントを用いて量産しました。

以後、マリリン・モンローや毛沢東など、時代を象徴する人物のアイコンも取り入れるようになります。

 

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