ゴッホ印象派絵画西洋美術
ART

ゴッホとは?「ひまわり」など代表的な絵画や、耳切り事件について分かりやすく解説!

「炎の画家」ゴッホ
その人生といくつかの謎

世界で、日本で一番有名と言っても過言ではない印象派の画家、フィンセント・ファン・ゴッホ。

壮絶な人生と、絵画に対する情熱から「炎の画家」とも呼ばれています。

美術館では、ほぼ毎年ゴッホをテーマにした展覧会が開かれるなど、日本人にも馴染みの深い画家ではないでしょうか。

今回は、天才と称されるゴッホの経歴・生い立ちから死の謎、彼の代表作についてご紹介します。

 

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ゴッホの経歴と生い立ち

幼少期

ゴッホ(フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ)は、1853年3月30日、オランダ南部の街ズンデルトで牧師の家に生まれました。

ゴッホは死産した兄の次に生まれた子供で、家の中では長男にあたります。下にはテオをはじめとする5人の兄弟がいました幼少時代のゴッホは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた他、一人で遠出してしまう事も多かったと言われています。

一時は父と同じ聖職者になることを夢見ていましたが、画家への道を決心し、弟テオの経済的支援を受けながら画家としての人生をまっとうしました。

彼が画家として活動した10年のうち、特に活躍し評価された後半の5年間は、大きく以下4つの年代に分けられます。

 

 ①パリ時代(1886年-1888年初頭)

 ②アルル時代(1888年-1889年5月)

 ③サン=レミ時代(1889年5月-1890年5月)

 ④オーヴェル時代(1890年5月-7月)

 

パリ時代(1886年-1888年初頭)

1886-87年、弟テオを頼ってパリに移り、印象派の画家たちと交友を持った年代をパリ時代と呼びます。

ここから兄弟の2年にわたる同居生活が始まり、この二年間はファン・ゴッホにとって、多くの刺激と変化に満ちた期間でもありました。

パリ時代には、兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、当時無名なゴッホの生活については分かっていないことが多いです。

 

アルル時代(1888年-1889年5月)

1888年、ゴッホは画家の組合を作ることを夢見て、南フランスのアルルに移り、ゴーギャンと共同生活を送りました。

この時代をアルル時代と呼びます。

ゴッホは画家の友人エミール・ベルナール宛の手紙の中で、アルルの地を

「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため、日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」
出典:ベルナール宛書簡587

と表現しています。

しかし、ゴーギャンとの理想の生活は2ケ月も持ちませんでした。

 

サン=レミ時代(1889年5月-1890年5月)

1889年の「耳切り事件」以降、アルル近郊のサン=レミ=ド=プロヴァンスにある精神療養所に入院しながら、絵を書き続けたこの時代をサン=レミ時代と呼びます。

ゴッホは「耳切り事件」のあと、アルル市立病院に収容されました。

弟テオが看病に駆けつけ、そのあとパリに戻りますが、同じタイミングでゴーギャンも黄色い家を後にし、パリに戻っています。

その後容態は改善に向かい、ゴッホはテオ宛の手紙でこう書いています。

 

あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。

何よりも心配しないでほしい。

ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。

なぜ彼は消息を知らせてこないのか。

ゴッホは「耳切り事件」に関する記憶を一切覚えていませんでした。

 

その後、彼は数回精神病院への入退院を繰り返し、ゴッホはアルルから20キロほど北東にあるサン=レミの療養所に入所します。

ゴッホは療養所の一室をアトリエとして使用することを許され、時には外へ出て風景画を制作しました。

「アイリス」「星月夜」「糸杉」などに代表される、ゴッホのうねるような筆致を用いた代表作は、ほとんどこの時代に制作されました。

 

一時は順調な回復を見せたゴッホですが、それ以後何度か発作に襲われるようになります。当時の医師はゴッホの様子についてこう記しています。

発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。

発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。

 

オーヴェル時代(1890年5月-7月)

1890年、養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移ってから死に至るまでの時代を、オーヴェル時代と呼びます。

彼は、レストラン「ラブー亭」の3階の屋根裏部屋に宿を取り、2カ月という短期間に約70点もの作品を精力的に描きました。

 

ゴッホは自殺?死因の謎

ゴッホ

1890年、ゴッホは医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、ラヴー旅館に滞在しました。

滞在の間、ゴッホは「オーヴェルの教会」や「カラスのいる麦畑」といった大作を制作しています。

同年7月27日の日曜日の夕方、ラヴー旅館に怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着きました。

旅館に駆けつけた医師ガシェは、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達していることから、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることにしました。

 

翌日、医師ガシェからの手紙を受け取った弟テオは、兄ゴッホの元に急行します。

彼がラヴー旅館に着いた時、ゴッホはまだ意識があり話すことが出来る状態でしたが、翌日午前1時半に死亡しました。37歳という若さでした。

 

テオは、妻ヨーに宛てた手紙にこう記しています。

オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。

……兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。

 

死に至るまでの怪我を追った理由について、ゴッホは自ら自殺を図ったとするのが定説とされていますが、誰もその現場を目撃していない事や、銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるといった理由から、様々な異説があります。

1つは、彼と一緒にいた少年達が持っていた銃が暴発し、ファン・ゴッホを誤射してしまったが、彼らをかばうために自殺に見せかけたというもの。

未だに彼の死因について、真実は闇に葬られたままですが、こうした死の謎も、また彼の壮絶な人生を印象付ける要因の1つとなっています。

 

ゴッホの「ひまわり」シリーズ

ゴッホは1888年から1890年にかけて、花瓶に挿された向日葵を、7つを描きました。(このうち6つが現存しています)

彼にとっての向日葵は明るい南仏の太陽、また「幸せの象徴」であると言われています。

南仏のアルル滞在時によく描いていた向日葵を、精神病院での療養が始まってからは一切描いていないことからもそれは明らかであるとされています。

 

最初に制作された「ひまわり」

ゴッホひまわり1

1888年8月に制作された一連のシリーズの最初とされる作品。

花の数は3本です。現在はアメリカ在住の個人が所有しています。

 

4枚目の「ひまわり」

ゴッホひまわり4

ゴッホのひまわりシリーズの中で、最も有名な一枚がこちら。花の数は15本です。

明るい色彩とタッチからひまわりがゴッホにとって幸せの象徴であったことが伺えます。現在はロンドンのナショナルギャラリーで公開されており、多くの観光客が訪れています。

 

5枚目の「ひまわり」

ゴッホひまわり5

1888年12月の「耳切り事件」直前に描かれたとする説もある一枚。花の数は15本です。

バブル真っ盛りの1987年3月に現損害保険ジャパンが、ロンドンのクリスティーズで2250万ポンド(当時で約53億円)で落札し話題にもなりました。

4枚目の作品と同じ構図で描かれていますが、全体的な色合いやタッチなど、細かい部分は異なり、色彩や質感の研究のためにゴッホが熱心に制作に取り組んでいたことがうかがえます。

 

7枚目の「ひまわり」

ゴッホひまわり7

エメラルドグリーンの背景が印象的な、有名な一枚。

花の本数は12本です。現在はドイツのミュンヘンにあるノイエ・ピナコテーク美術館に所蔵されています。

 

ゴッホを支えた弟・テオ

 

ゴッホの話をする際に、ゴッホに一番近しい人物として必ず登場するのがゴッホの弟、テオドルス・ファン・ゴッホ(Theodorus van Gogh)です。通称テオ(Theo)の愛称で知られています。

彼はオランダ出身の画商として活躍し、兄ゴッホの1番の理解者であり経済的支援者でした。

画商の「グーピル商会」に勤め、パリのモンマルトル大通り店の経営をしていたテオ。彼の支援が無ければ、ゴッホは画家になれなかったと言っても過言ではありません。

 

ゴッホ作「テオの肖像」

テオはもともと病弱でしたが、1890年7月29日にゴッホが死去すると、兄の死をきっかけに徐々に衰弱しオランダに帰国。

翌1891年には兄の後を追うようにユトレヒトの精神病院で33歳という若さで死去しました。

 

テオの妻のヨーは彼の死後、画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルクと再婚しましたが、ゴッホの死を悼み、ゴッホとテオの2人の間で交わされた書簡を整理し、1914年にオランダ語で書簡集を発刊しました。

また、ゴッホの回顧展を開催し、画家としての知名度を現代に到るまで有名なものにしたのは妻ヨーの努力無しでは成しえなかったと言えます。

 

現在、フィンセントゴッホとテオの墓石は、隣に並んで眠っています。

 

ゴッホは統合失調症・色盲だった?

ゴッホの統合失調症説

「狂気の画家」や「耳切り事件」といった言葉に代表されるように、ゴッホは躁鬱や統合失調症だったのではないか?という説があります。

しかし、実際の死因については依然として判明しておらず、最近ではてんかん説が主流になっているそうです。

しかし、サン=レミ時代に描かれた作品は、それ以前の作品とは大きく異なり、彼の精神的な動揺を反映するかのように渦巻き蠢くような絵の具の筆致で描かれています。

どちらにせよ、てんかん、もしくは統合失調症いずれかの病気がゴッホが天才と呼ばれるきっかけになった事は間違いありません。

 

ゴッホの色盲・色弱説

ゴッホは実は色弱だった?という説は日本の医学者で詩人でもある浅田一憲が提唱した説です。

まずはこれらのゴッホ作品を見比べてみてください。

 

 

いかがでしょうか。違いが分かりましたか?
どの絵も上の絵は彩度が強く、下の絵の方が落ち着いた色調になっているのが確認できると思います。

実はこれらの画像は全て、上がゴッホのオリジナル作品。下は色弱の人が見ている色味に変換したゴッホ作品の画像になります。

 

画像から見て分かる通り、色弱の人には現実の色が少し茶色がかったような落ち着いた色に見える傾向があります。

こうした色の見え方を根拠に、ゴッホは実は色弱だったのではないか?ゴッホは絵画に革命的な表現を起こそうと色のコントラストが激しい絵を描いたのではなく、元々色弱だったが故に結果的に彩度の高い作品になったのではないか?というのが浅田一憲が提唱したゴッホ色弱説です。

真偽のほどは分かりませんが、てんかん、統合失調症などの病気が色弱を併発させていた可能性も0ではありません。

 

ゴッホとジャポニスム

ゴッホの作品を読み解くための重要なキーワードが「ジャポニスム」。
ゴッホは印象派の画家の中でも特に日本の浮世絵からの影響を受けている画家の一人です。

彼にとっての日本はまさしくユートピアでした。貧しい生活の中で、彼は歌川広重をはじめとする500点近くもの浮世絵を収集しています。

 

ゴッホの特徴である原色に近い色使いや、平面的な構図は全て、浮世絵からの影響と言えるでしょう。いかにゴッホが浮世絵に傾倒していたかが伺えます。

弟テオや友人に宛てた手紙の中で、ゴッホは日本美術について熱く語っています。

みんな日本の絵が好きで、その影響を受けている-これは印象派画家ならみんな同じこと、それなのに日本へ、つまり日本に相当する南仏へ行こうとしないだろうか。

日本人は素早く、稲妻のように実に素早く素描する。それはその神経がいっそう細やかで、その感情がいっそう素朴だということだ。

 

ゴッホの浮世絵模写(右)1887年

 

日本へ行きたくて仕方のないゴッホですが、そんな経済的余裕は無く、浮世絵の色彩に近い風景を備えたアルルの地に趣いたゴッホ。

そう、これこそ--かくも単純で、あたかも己れ自身が花であるかのごとく自然のなかに生きるこれらの日本人がわれわれに教えてくれることこそもうほとんど新しい宗教ではあるまいか。

もっと大いに陽気になり、もっと幸福になり、因襲の世界でのわれわれの教育や仕事に逆らって自分たちを自然へと立ち返らせることをせずに、日本の芸術を研究することはできないように思われる。

 

ゴッホは、日本人の優れた自然観察能力について深く分析しています。

ゴッホがもし日本にきていたら、彼はどんな風に日本を捉えたでしょうか。

 

ゴッホとゴーギャン

1888年、アルルでのゴッホとゴーギャンの共同生活が始まりました。

一緒に街に散策に出ては同じモチーフの作品を多数描き、順調だった2人の同棲生活。

ゴーギャンが絵を描いているゴッホを描いた肖像画も有名です。

 

ゴーギャン「ひまわりを描くゴッホの肖像画」

しかし、次第に2人の関係は緊張するようになります。

ヴァンサン(ファン・ゴッホ)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。

……

彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。

……

色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない。

 

ゴーギャンは友人であり画家であるベルナールに宛てた手紙にこう不満を述べています。

また、テオに宛てた手紙の中ででゴッホとの共同生活を止めることを知らせています。

いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。

ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。

彼も私も制作のための平穏が必要です。

 

ゴッホもまた、ゴーギャンとの生活について、テオに宛てた手紙でこう述べています。

ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。

 

ゴッホの耳切り事件

そして、問題の「耳切り事件」が発生しました。

この事件をきっかけにでゴーギャンとの共同生活は終わりを告げます。

ゴッホの「耳切り事件」について、地元紙は、次のように報じました。

「ル・フォロム・レピュブリカン」1888年12月30日

先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。

そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。

この不幸な男は直ちに病院に収容された。

 

ゴッホ作品をもっと楽しもう

映画「ゴッホ 最期の手紙」

「ゴッホ 最期の手紙」は、画家フィンセント・ファン・ゴッホの死を描いた「アートサスペンス」映画。

その特徴は何と言っても、油絵6万2450枚でできたアニメーション映画であるということ!

総勢125人の画家たちが、ゴッホの画風を模した絵を、実際に一枚一枚描きました。

ゴッホの作品の中に飛び込んだような気分になれる壮大なアート映画。ストーリーは勿論、ゴッホの作品が動く感動を楽しめる作品です。

 

次に、ゴッホの人物像・作品についてもっと知ることができる、おすすめの関連書籍5冊をご紹介します。

 

「ゴッホ」のおすすめ関連書籍

ゴッホ原寸美術館 100% Van Gogh! 

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「ジャガイモを食べる人々」「アルルの跳ね橋」「夜のカフェ・テラス」「ひまわり」「星月夜」「糸杉」といったゴッホの代表作を原寸大で掲載した画集。

大迫力の作品画像だけでなく、年代別の「自画像」や「肖像画」の変貌を辿る解説、「ジャポニスム」との関わり、技法の変遷といったゴッホの絵画にまつわる深い解説が載っているので、入門書としておすすめの一冊です!

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ゴッホの画家人生10年を子供にもわかりやすく、親しめる絵本。

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もっと知りたいゴッホ―生涯と作品

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日本で出版されたゴッホの画集・入門書として最も定評のある本がこちら。

日本のゴッホ研究で最も権威のある圀府寺司氏が執筆しています。アート初心者にもわかりやすく、全編カラーで各作品の画像も綺麗なので、ゴッホについて知りたい人にはまずこの本をおすすめします!

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ファン・ゴッホの手紙【新装版】

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98通もの未公開書簡を掲載。弟テオの画商としての生涯に光を当てた伝記です。

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