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ロシア・アヴァンギャルドとは?建築・デザイン・音楽などジャンルごとの特徴を分かりやすく解説

ロシア革命(1905〜1917)が起きた動乱の時代に花開いたロシア・アヴァンギャルド

「名前は聞いたことがあるけれど、具体的な作品や歴史的な背景はよく分からない」という方も多いのではないでしょうか。

この芸術運動が続いたのは、1910〜1930年代の約20年間と短い期間でしたが、デザイン・絵画・作詩・演劇・映像・建築など幅広い分野で革新的な作品、表現技法を生み出し、世界の芸術文化に大きな影響を与えました。

今回は、ロシア・アヴァンギャルドとは一体どのような運動だったのか、その歴史的背景と有名な芸術家、作品について分かりやすく解説します。

 

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ロシア・アヴァンギャルドとは?

ロシア革命をきっかけに生まれた芸術運動

ロシア・アヴァンギャルドとは、1917年に起きたロシア革命をきっかけに、文学・絵画・映画・建築・デザイン・写真など、幅広い分野の芸術家たちが参加した芸術運動を総称する言葉です。

 

第一次世界大戦の長期化により、多くの戦死者を出したロシア帝国(のちのソビエト連邦=ロシア)。

国内の経済は低迷し、貧困と飢えに不満を抑えきれなくなくなった市民はロマノフ王朝を倒し、ロシア革命が起こります。

1917年、社会主義国家の建設を目指す革命家たちがソビエト政権を樹立し、社会全体が混乱と不安、革命への期待に揺れ動いていました。

 

ロシア革命の初期には、ヨーロッパ諸国の芸術を受け入れる自由な空気が流れており、若い芸術家たちも革命運動に積極的に協力しました。

芸術家たちの多くは、一部の富裕層が所有、鑑賞するためのものだったこれまでの芸術を否定し、芸術の純粋な自律実用性の高い芸術の創造を目指しました。

 

プロパガンダ・アート

社会主義国家の建設に向けて、革命政府は積極的に「芸術の力」を利用し、芸術家の多くがこれに賛同・協力しました。

革命直後には、ロシアの辺境の農村地域にも社会主義革命が進んでいることを伝える必要がありましたが、当時のロシアは識字率が低かったため、一目で分かるポスターや看板、ビラなどがプロパガンダの役割を果たします。

タイポグラフィやコラージュを使用したグラフィックデザイン、プロパガンダ・アートが急速に発展していきます。

 

ロシア構成主義

ロシア革命後、国内では急速な産業発展、工業化が進められました。

工業的経済発展を目指す政府の方針に賛同した芸術家たちは、これまでの芸術文化を一部の貴族が楽しむために作られたブルジョワ芸術だとして否定し、「美しい芸術」ではなく、「生活に役立つ芸術」「社会の目的を実現するための芸術」を模索。

鉄や金属となど工業的な素材を組み込んだ作品が数多く発表されました。

こうしたムーブメントを「ロシア構成主義」と言います。

構成主義の芸術家たちは、芸術表現をより実用的なものに近づけることで、社会に貢献するという強い意思を持っていました。

 

スターリンにより弾劾され終息

1924年、スターリン政権がソ連の独裁的権力を握ると、芸術分野には逆風が吹き始めます。

革命当初、ロシア・アヴァンギャルドの芸術は革命政府の方針と一致していましたが、一方で、その前衛的な表現手法は、労働者階級の人々にとって「難解なもの」と捉えられていました。

 

スターリンは、これからの芸術は労働者階級にも分かりやすく現実を示して人々を鼓舞し、生産性を高める表現であるべきだとして、「社会主義リアリズム」に一気に舵を切ります。

芸術の自律性を重視してきたロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちは、それまでの自由な芸術表現を禁じられ、スターリン政権下で厳しい弾圧を受けるようになりました。

芸術家たちの多くは弾圧から逃れるため亡命し、国内に留まった芸術家も収監、強制労働など激しい弾劾を受け、ロシア・アヴァンギャルド運動は終焉を迎えます。

 

ロシア・アヴァンギャルドの主な潮流

未来派

未来派は、これまでの文学や詩を捨てて「機械や産業・スピード・騒音などが近代の美である」という価値観に基づき活動した一派です。

ダイナミックに革命理想をうたった未来派の旗手とされる詩人、ウラジミール・マヤコフスキー(1893-1930)や、言葉の意味を切り離して音の連なりによる「ザーウミ(超意味言語)」提示したヴェリミール・フレーブニコフ(1885-1922)らが中心となって、詩や舞台美術、デザインなど様々な分野に関わり、ロシア構成主義にも大きな影響を与えました。

 

構成主義

構成主義は1913年、ウラジミール・タトリン(1885-1953)によって創設された芸術運動です。

革命政府のの生産主義的な方針に賛同した芸術家たちは、革命以前の芸術をブルジョア的だとして否定し、「社会的目的のための芸術」「生活に役立つ芸術」の創造を目指しました。

 

革命政府によるプロパガンダ政策のもと、グラフィックデザインが急速に発達し、ガラスや鉄など工業製品を用いた、実用性の高い作品が多く発表されました。

構成主義は、シュプレマティズム(絶対主義・至高主義)と共に、ロシア・アヴァンギャルドの二大勢力として活躍し、ドイツのバウハウス、オランダのデ・ステイルなど、20世紀の芸術界に大きな影響をもたらしました。

 

シュプレマティズム

シュプレマティズムは、画家のカジミール・マレーヴィチ(1879-1935)が提唱した、幾何学モチーフと純粋感性を絶対とする絵画様式です。

「suprematism」とは、「絶対主義」あるいは「至高主義」を意味します。

 

マレーヴィチは「哲学的な美」を追求した結果、絵画から現実的なモチーフや意味を排除し、円や正方形といった幾何学モチーフのみで構成された抽象絵画に行き着きます。

絵画から現実世界とのあらゆる対応関係を排除し、鑑賞者に思考と自問を促す「絶対的な抽象」「無対象の絵画」の創造を目指しました。

 

レイヨニスム

レイヨニスムは、画家ミハイル・ラリオーノフ(1881-1964)が提唱した、物体に反射する光を描くことを追求した絵画様式です。

「絵を単純化していけば究極のところ、物体に反射する光線を描くことになる」という理論から「光線主義」とも呼ばれます。

 

現実的の物体を対象とするのではなく、光を主題としたこの絵画手法では、線、リズム、色彩の総合的な関係を画面上に表現した作品が発表されました。

その理念は20世紀の抽象画に引き継がれていきます。

 

ロシア・アヴァンギャルドが広がったジャンル

文学

19世紀末〜20世紀初頭、ロシア文学は「銀の時代」といわれる黄金時代を築きました。

目に見える現実ではなく、人々の心と夢に潜むものを表そうとした象徴主義や、既存の芸術を破壊する革命的詩作をめざした未来派などが文学に新たな風を吹き込みます。

 

マヤコフスキー、フレーブニコフなど、次々に才能ある詩人があらわれ、絵画・デザイン・演劇・建築など様々なジャンルに影響を与えながら、ロシア・アヴァンギャルドの運動は広がっていきました。

 

建築

ロシア革命以降、国内では急速な産業発展、工業化が進められ、建築の分野でも革新的な構造や建築プランが発表されました。

それまでの伝統的な設計手法、装飾などの無駄を排除し、合理的な構造美を追求する「構成主義建築」が一世を風靡し、建築技術の発展に大きく貢献します。

螺旋状の鉄塔「第三インターナショナル記念塔」を発表したウラジミール・タリトン、そしてコンスタンチン・メーリニコフらは建築界の巨匠として知られています。

 

音楽

音楽家たちも、革命以前の伝統的な音楽、作曲法を否定し、生活と芸術の境界を壊そうと試みました。

エンジンやモーター音、サイレン、警笛、大砲など、社会や日常生活に身近な音が「楽器」として取り入れられ、実験的な音楽が多く発表されました。

西欧の新しい音楽技法を積極的に取り入れたニコライ・ロスラヴェッツ(1881-1944)や、工場騒音をモチーフとした管弦楽曲『鉄工場』(上)を作曲したアレクサンドル・モソロフ(1900-1973)が当時注目を集めました。

 

映画・演劇

20世紀初頭のロシアでは、日常生活を演劇のテーマとした近代劇が誕生しました。

演出家フセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940)をはじめとして、様々なジャンルの芸術家たちが関わり、実験的な舞台芸術の創造に挑戦します。

新しい映像表現を模索していた映画界では、セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(1898-1948)が、別々のカットを繋げることで、観客に哲学的な意味を暗示する「モンタージュ理論」を確立し、映画史に大きな功績を残しました。

 

デザイン・美術

デザイン・美術の分野では、シュプレマティズムの提唱者であるマレーヴィチやエル・リシツキー(1890-1941)、構成主義のアレクサンドル・ロトチェンコ(1891-1956)といった芸術家たちが、革新的な絵画表現を模索しました。

ロシア・アヴァンギャルドの中で、現代でも特に親しまれているのはグラフィックデザインの分野です。

コラージュやタイポグラフィの技法を駆使したポスターやビラのデザインは、当時まだ識字率が低かったロシアでプロパガンダ・アートとして急速に発展しました。

 

ロシア・アヴァンギャルドを代表する芸術家

ウラジーミル・マヤコフスキー(1893~1930)

ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930)は、「ソ連邦随一の詩人」と称されるロシア未来派の詩人です。

彼はロシア社会民主労働党に加わり、その後ボリシェヴィキのメンバーとなったことを理由に3回逮捕され、獄中生活で詩作をはじめました。

釈放後は芸術系の学校に入学し、そこで出会った若い芸術家たちと「ロシア未来派」の運動を始め、長編詩『ズボンをはいた雲(1915)』を発表します。

鮮烈な抒情とダイナミックなリズムを持つ詩作は、後の詩人に大きな影響を与えました。

 

ヴェリミール・フレーブニコフ(1885~1922)

ヴェリミール・フレーブニコフ(1885-1922)は、マヤコフスキーと共にロシア未来派の中心メンバーとして活動した、20世紀のロシアを代表する作家、詩人です。

彼は大学で数学や生物学を学ぶ傍ら詩作をはじめました。

日露戦争をきっかけに日本語を独学で勉強し、1908年にペテルブルクに上京。詩人たちと交流を持つようになります。

「ザーウミ」といわれる新造語を駆使するなど言語実験的な作品を次々と発表し、同時代の詩人、画家たちにも影響を与えました。

 

イリヤ・ズダネーヴィチ(1894~1975)

イリヤ・ズダネーヴィチ(1894-1975)も同じく、ロシア未来派運動に参加した詩人・作家です。

作詩だけでなく、タイポグラフィーを駆使したデザインを手掛けるなど、様々なジャンルで活躍しました。

ロシア革命直後に未来派の団体「40°」を結成し、フレーブニコフが提唱した芸術言語「ザーウミ」を用いた作品も発表しています。

1919年にはパリに移住し、ダダイストやシュルレアリストたちと共に前衛芸術活動に励み、ピカソとの共同制作も行いました。

 

ニコライ・ロスラヴェッツ(1881~1944)

ニコライ・ロスラヴェッツ(1881-1944)は、ロシア左翼芸術の一翼として名を馳せた作曲家です。

彼の楽曲はロシア未来派の機関誌上で発表され、未来派の画家たちがその装幀を手がけています。

西欧諸国の新しい音楽を積極的に取り入れたことから、プロレタリア(賃金労働者階級)的音楽を推進する多数派と対立。

スターリンによる独裁政権が始まって以降は「反革命的でブルジョワ的な芸術家」として弾圧、公職追放され、不遇のうちに命を落としました。

 

アレクサンドル・モソロス(1900~1973)

アレクサンドル・モソロス(1900-1973)は、ロシア革命で赤軍として活動したのち、モスクワ音楽院で作曲を学びます。

ソビエト連邦の音楽を発展させることを目標としていた現代音楽協会(1923~1932)に所属し、ロシア・アヴァンギャルドの重要人物となりました。

代表作「鉄工場(1928)」は工場騒音を音化した斬新な作品で、破壊主義や機械崇拝を表した作品として、世界で演奏されました。

1937年に反ソビエトのプロパガンダを理由に逮捕され、強制労働から奇跡的な生還を遂げるも、その後も音楽性の転向を余儀なくされてしまいます。

 

セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898~1948)

セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948)は、映画草創期の1920年代に、複数のカットを繋ぎ合わせることで、観客に哲学的な意味を暗示させる「モンタージュ理論」を確立した映画監督です。

代表作『戦艦ポチョムキン(1925)』は、今でも映画史に残る1本としてあまりにも有名です。

新しい映像表現を求め邁進しますが、スターリンによる独裁政権が始まると、作品の改変を命じられるなど自由な製作ができなくなり、その後は後進の指導に専念しました。

 

フセヴォロド・メイエルホリド(1874~1940)

フセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940)は、ロシア演劇・現代演劇の最高峰と称される演出家です。

彼は1898年、モスクワ芸術座の旗揚げに参加し舞台俳優としてデビュー、その後いくつかの劇団を結成し、演出家として演劇・演出手法を探求します。

従来の演劇手法に不満を抱いていた彼は、ロシア革命を実験的な演劇を創造する絶好の機会と捉え、いち早くロシア共産党に入党。

映画のモンタージュ理論に共通する演出手法を確立し、世界の演劇界に大きな影響を及ぼしました。

しかし彼の前衛的な舞台演出は、当時の全体主義的な統制と対立し、スターリンによる大粛清の犠牲となってしまいます。

 

ウラジーミル・タトリン(1885~1953)

ウラジーミル・タトリン(1885-1953)は、「構成主義」を提唱した芸術家(画家・彫刻家・建築家)です。

1914年、ピカソのスタジオを訪れた彼は、そこでキュビズムのコラージュ作品を目にし、モスクワに帰国後、「カウンター・レリーフ」と呼ばれる、金属やガラス、木材などを組み合わせたレリーフ彫刻を発表しました。

彼は革命後、急速な産業発展と工業化が進むロシアで、一般市民から離れていた芸術作品を、再び生活に近づけようと試みました。

 

高さ400メートルに及ぶ螺旋形の鉄塔を構想した「第三インターナショナル塔(1919)」(上)は、ロシア構成主義を体現した作品として有名です。

 

カジミール・マレーヴィチ(1879~1935)

カジミール・マレーヴィチ(1879-1935)は、「シュプレマティズム(絶対主義)」を提唱した芸術家、画家です。

美術史では、戦前に抽象絵画を手掛けた最初の人物として知られています。

彼は従来の絵画表現で当たり前とされてきた、「対象物を見て描く」という前提を否定し、抽象表現と哲学的な美を追求しました。

キャンバスに黒い正方形を描いただけの「黒い四角(1915)」や、オフホワイトの地の上に同色の白の正方形を描いた「白の上の白(1918)」は究極のシュプレマティズム作品と言えます。

スターリンが政権を握ると、マレーヴィチは写実的な具象絵画にスタイルを戻しその生涯を終えました。

 

エル・リシツキー(1890~1941)

エル・リシツキー(1890-1941)は、マレーヴィチとともにシュプレマティズムを代表するデザイナーの1人です。

特にタイポグラフィにおいては、20世紀のグラフィックデザインに最も大きな影響を与えた人物として知られています。

 

彼が1919〜24年にかけて発表した絵画シリーズ「プロウン」(上)は、二次元平面(絵画)と建築の中継地点として、シュプレマティズムの幾何学抽象を現実世界に組み込むことを意図して制作された作品です。

彼のこうした構想は、西欧諸国にも大きな影響を与え、工業デザインの発展に貢献しました。

 

ミハイル・ラリオーノフ(1881~1964)

ミハイル・ラリオーノフ(1881-1964)は、ロシア構成主義、シュプレマティスムなどロシア・アバンギャルドにも影響を与えた画家、芸術家です。

早くから印象派風の画風に挑戦していた彼は、1906年にパリを訪れたのち、ポスト印象派に移行しました。

モスクワに帰国後、「ダイヤのジャック」「ロバの尻尾」といった芸術家集団を組織し、ロシア初の抽象表現主義運動「レイヨニスム(光線主義)」を提唱しました。

ロシア革命後はパリに移住。その後市民権も取得し、パリで一生を終えた彼は、フランスとロシアの懸け橋とも言われています。

 

アレクサンドル・ロトチェンコ(1891~1956)

アレクサンドル・ロトチェンコ(1891-1956)は、ロシア構成主義の画家、デザイナーです。

彼は「芸術は一部の特権的な人々が作品を所有し鑑賞するものではなく、日常の生活の中に活かされてこそ意味がある」という「生産的芸術」を提唱しました。

写真に関心を抱いていた彼は、コラージュ、モンタージュを駆使したポスター、書籍などのデザインを手がけ、多くの名作を残しました。

日常生活の中にデザインを取り込むことをはじめて提唱した人物であることから「グラフィック・デザインの父」と言われています。

 

ウラジーミル・シューホフ(1853~1939)

ウラジーミル・シューホフ(1853-1939)は、ロシア・アヴァンギャルドを代表する建築家、技術者です。

彼の代表作は、1896年に全ロシア博覧会のパビリオンで発表した、双曲面で構成された鉄塔「シューホフ・タワー」(下)です。

 

鉄線を格子型につなぎ合わせていくことで、鉄の使用量を削減しながら強度を維持することができる双曲面構造は、当時大きな反響を呼びました。

パイプライン輸送の先駆者としても知られ、石油タンカーの設計、蒸気ボイラーに関する発明など、その才能は多岐に渡ります。

 

イワン・レオニドフ(1902~1959)

イワン・レオニドフ(1902-1959)は、ロシア構成主義を代表する建築家の一人です。

絵画から建築に移行して以降、数々のコンペ案でそれまでの構成主義とは異なる独創的スタイルを示し、注目を集めました。

 

1927年に卒業制作として発表した「レーニン図書館学研究所案」(上)は、彼の名前が世界で知られるきっかけとなり、後世の建築に大きな影響を与えました。

1930年代以降は、スターリン主義体制による構成主義的建築への批判と抑圧を受け、生涯で一度も自作の建築を立てることが叶わず、アルコール依存症となり事故で亡くなっています。

のちにル・コルビュジエが高く評価し、レム・コールハースが傾倒した建築家としても知られています。

 

コンスタンチン・メーリ二コフ(1890~1974)

コンスタンチン・メーリ二コフ(1890-1974)はロシア構成主義建築を代表する建築家です。

建築に携わった当初、彼の設計は保守的なスタイルでしたが、モスクワの国立学校で建築学を履修した後に一変し、革命的な設計プランを手掛けるようになります。

 

パリ万博のソ連パビリオン(上)などに代表される彼の作品は当時、最も前衛的で独創的な建築とされました。

しかし、スターリン政権下では「形式主義的建築家」として激しく批判され、建築設計業務に関わることを禁じられてしマイます。スターリンによる粛清を生き延びたものの、晩年は教職に専念し、肖像画家として余生を過ごしました。

 

「ロシア・アヴァンギャルド」のおすすめ関連書籍

ロシア・アヴァンギャルド小百科

美術、建築、デザイン、演劇、音楽など様々な領域に広がったロシアアヴァンギャルド。

本書は19世紀末から1930年代はじめに展開された前衛芸術運動の全貌を網羅した、日本初のロシアアヴァンギャルド事典です。

芸術用語など440項目以上、図版170点を収録。

最新の資料を駆使してあますところなく詳述しています。

ロシア・アヴァンギャルド小百科

8,800円 (税込)

 

ロシア・アヴァンギャルド

ロシアアヴァンギャルドは、マヤコフスキー、カンディンスキーなど独創的な革新者を生み出し、あらゆるジャンルで展開しました。

しかし、自ら支持したロシア革命によって弾圧されていきます。

本書は運動の軌跡を幅広く紹介し、芸術家たちの夢と挫折、確執と対立を描いています。

ロシア・アヴァンギャルド (岩波新書)

325円 (税込)

 

まとめ

ロシア・アヴァンギャルドは、ロシア革命前後のわずか20年ほどの間に芸術界を席巻し、そしてスターリンによる独裁政権の始まりとともに消え去っていきました。

しかし、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちが遺した技法や理論は、現代の芸術文化に今もなお息づいています。

当時の世相を思い浮かべながら作品を鑑賞すれば、また違った魅力が見えてくるかもしれません。

知れば知るほど奥深い、ロシア・アヴァンギャルドの世界。

この記事が、不遇の時代を生きた芸術家たちの人生を知るきっかけになれば幸いです。

 

 

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