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ヒトラーが描いた絵9選|画家を志したウィーン時代と退廃芸術について詳しく解説

ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の指導者であり、独裁者として知られるアドルフ・ヒトラー(1889-1945)。

ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を行った史上最悪の独裁者として知られるヒトラーですが、政治家になる前は画家を志していたことをご存知でしょうか。

もしヒトラーが政治家ではなく画家の道を歩んでいれば、悲劇は起きていなかったかもしれません。

今回は、ヒトラーの生涯と彼が描いた作品について詳しくご紹介します。

 

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ヒトラーとは?

アドルフ・ヒトラー(1889〜1945)は、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を率いたドイツ出身の政治家です。

ナチスの党首として、北方人種を世界を指導するべき人種とした「人種主義」と、ユダヤ人を差別・排斥する「反ユダヤ主義」を掲げ、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を引き起こした20世紀最大の独裁者として知られています。

ヒトラーは1933年にドイツ国首相となり、就任後は他政党や党内外の政敵を弾圧し、巧みな演説術で支持を集め、瞬く間に独裁者としての権力を掌握しました。

 

ヒトラーは政治家になる以前、画家を志していた時期があります。

1907年、当時18歳だったヒトラーは、画家を目指しウィーンに移住。ウィーン美術アカデミーの試験に挑戦しますが、受験に2度失敗しています。

 

アカデミーへの入学は諦めたものの、その後も制作を続け、観光客向けに絵やポストカードを売って生活していましたが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、従軍をきっかけに政治家としての道を歩み始めます。

 

現在、ヒトラーの描いた絵は大量に見つかっており、オークションにかけられたものは数万ドルの値がついています。

中には戦後アメリカ軍が接収した作品もあり、それらの作品はアメリカ政府が今も保管しており一般には公開されていません。

 

ヒトラーの生涯

1889年、オーストリアで生まれる

アドルフ・ヒトラーは、1889年4月20日、オーストリアのブラウナウ(オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州)に誕生しました。

父親のアロイス・ヒトラー(1837-1903)は3度結婚しており、ヒトラーは3番目の妻 クララ・ヒトラー(1860-1907)との間に4男として生まれました。

 

アロイスは権威を振りかざす人物だったようで、事業に失敗した苛立ちから、時には鞭を使って折檻したといいます。

アロイスの厳しい躾によって、ヒトラーは人々を妬む猜疑心の強い人物に育ったと考えられています。

家父長主義的な父とヒトラーの関係は次第に悪化していき、ハプスブルク帝国支持者だった父に反発するように大ドイツ主義に傾倒していきました。

 

ウィーン美術アカデミーを受験

1907年、当時18歳だったヒトラーは画家を目指しウィーンに移住しています。

同年9月、ヒトラーはウィーン美術アカデミーを受験しますが、1次の実技試験に合格したものの、2次の作品審査で不合格となりました。当時の試験記録には、

アドルフ・ヒトラー
実科学校中退
ブラウナウ出身
ドイツ系住民
役人の息子
頭部デッサン未提出など課題に不足あり、成績は不十分

と記述されています。

受験人数113名に対し合格者は28名、倍率は約4倍と、特別難関という訳ではありませんでしたが、人物デッサンを酷く嫌っていたヒトラーは、提出作品に指定されていた「頭部デッサン」を提出せず不合格となりました。

1908年に再度受験しますが、1次の実技試験で不合格となり入学を諦めます。

 

1906年にはエゴン・シーレ(1890-1918)がウィーン美術アカデミーに入学しており、画家として成功した1歳下のエゴン・シーレに対して、ヒトラーは後年まで恨みを抱いていたといいます。

 

ウィーンでの制作活動、2度目の挫折

当時、ヒトラーはウィーンの旧市街を囲む「リング通り」(上)の外側で生活していました。

この大通りには、博物館・美術館、宮殿など歴史的な建築物が集中しており、この環状道路を一周すると、ハプスブルク期に建てられた荘厳な建物をたくさん見ることができます。

ヒトラーはこうした建物を題材とした風景画を多く制作しました。

 

ヒトラーの作品はどれも画家自身の情熱や独創性を感じられるものが少なく、風景画や模写作品ばかりだったことも、アカデミーへの入学が許されなかった要因と考えられます。

ヒトラーは自身の画風を「古典派嗜好」と称し、ダダイズムやキュビズムなど、当時の前衛芸術には嫌悪感を抱いていました。

 

ヒトラーがウィーン美術アカデミーの受験に失敗し、学長に直談判しに行った際、学長は建築物を好んで描いた彼に「建築家を目指してはどうか」と持ちかけました。

しかし、建築アカデミーに入学するには建築学校で学ばねばならず、中等教育を修了していないと受験できないと知ったヒトラーは2度目の挫折を味わいます。

 

制作活動の終焉

その後もウィーンでの生活を続けていたヒトラーは、20歳から始まる徴兵義務を逃れるために度々姿を眩まし、浮浪者収容所や公営寄宿舎で生活しながら、観光客向けの絵やポストカードを売って生活費を稼いでいました。

当時のヒトラーに反ユダヤ的な思想はまだ無く、描いた絵をユダヤ人画商に好んで売り、買い手の多くもユダヤ人だったといいます。

 

1913年、ヒトラーは徴兵忌避罪を逃れるためミュンヘンに移住します。

1914年に逮捕、オーストリア領事館に連行されるも、領事館員の勧めで書いた弁明書では巧みな文章力で自分の無罪を主張し、罪を免れています。

 

同年8月1日に第一次世界大戦が始まると、ヒトラーは陸軍に志願し、伝令兵として戦地で活躍しました。

彼は前線まで自分の絵を持ち歩き、空いた時間に農村の家屋や救護施設などの絵を描いていたといいます。

従軍を境に、ヒトラーは政治家としての人生を歩み始めます。

 

ナチス総統就任と芸術弾圧

第一次世界大戦終了後もヒトラーは軍に在籍し、その演説力が認められ1919年にドイツ労働者党に入党。

翌年には党名を「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」に改名しています。

クーデター(ミュンヘン一揆)を起こしたために一時は刑務所に収容されますが、再建したナチ党から大統領選挙に出馬し、1933年にヒトラー内閣が発足しました。

 

政権を獲得し、実質的な支配権を手に入れたナチスは、芸術アカデミーの文学部門から反ナチス的な小説家や詩人を追放しました。

同年5月10日には「非ドイツ的著作物の焚刑」と題し、ドイツ各地で焚書(ふんしょ)も行っています。

 

1937年「退廃芸術展」を開催

ナチスはその後も美術品の略奪を繰り返し、1937年には、ドイツ民族の芸術を国家公認として一堂に集めた「大ドイツ芸術展」(上)を開催。

それと同時期に、ナチスが「退廃芸術」とみなし没収した作品を集め、誹謗する目的で「退廃芸術展」を開催しました。

 

「退廃芸術展」には、ナチスが押収した5,000点もの絵画、12,000点もの版画作品が、意図的に劣悪な状態で展示されました。

シャガールをはじめとするユダヤ系の画家の作品は、それらを蔑む目的であえて一つの展示室に展示され、展示室の壁には、抽象表現主義の画家たちを精神病者だと侮辱する言葉が書き殴られました。

 

「退廃芸術」とは?

ヒトラー率いるナチスは、ポスト印象派・表現主義などの抽象絵画、ダダイズム・キュビズムといった前衛芸術を「退廃芸術」と見做し否定しました。

ナチスはこれらの近代芸術を、

 

──ユダヤ人やスラブ人など、劣った血統(とナチスが見做した)を持つ芸術家たちが、都市生活の悪影響によって古典的な美の規範から逸脱し、ありのままの自然や事実を歪めて作った有害なガラクタ

 

だと非難し、ドイツ社会を害する恐れがあるとしてドイツ中の美術館から押収しました。

ナチスによって剥奪された美術品は、およそ60万点に及ぶとされています。

近代芸術家たちは、教職など公式な立場から追放された上に制作活動を禁じられたため、多くの芸術家がドイツ国外に亡命しました。

 

ヒトラーの作品の特徴

細やかで緻密な描写

ヒトラーが描いた建築物は、どれも細やかで緻密に描写されています。

同時期にウィーンで活躍していたクリムトやエゴン・シーレなどの画家とは対照的に、ヒトラーの作品からは、画家自身の情熱や独創性が感じられません。

 

ヒトラー自身は「美術史上の潮流をいくつも取り入れ、自身の画風に統合した」と考えていたようですが、実際に描いたのは均整・調和が理想とされた古典主義やイタリア・ルネサンス、新古典主義的な作品ばかりでした。

 

無機質な筆致

情感がほとんど感じられない無機質な筆致がヒトラーの作品の大きな特徴です。

彼は油彩よりも水彩を好んで描きました。

また、人物を描くことを嫌っていた彼は、風景画・建築画を多く描いています。

人物が登場する作品もありますが、風景の中に小さく描かれているものがほとんどです。

 

ヒトラーの作品9選 

路傍の木(1911)

1911年に描かれた「路傍の木」には、田園地帯の湖畔の風景が描かれています。

前に小道、奥に湖が描かれ、全体が湿っているような鬱屈とした印象を受けます。

ヒトラーはある記者のインタビューで、

1908年から1914年までに、1000枚を越える絵を描いた。

そのうちの数枚は油絵だった。

と語っており、その油絵の一つが本作です。

 

ミュンヘンのアルター・ホーフ中庭(1914)

建物の緻密な描写が際立つこの水彩画には、広い城館、石畳の庭、小さな噴水がきわめて正確に描かれています。

しかしヒトラーは、木などの建物以外の描写には関心がなく、木の葉は絵の具がただ塗りたくられているかのようです。

 

この絵をはじめとした何点かの作品が、米ワシントンの陸軍戦史センター地下に収蔵されていますが、一度も公開されたことはありません。

 

ノイシュバンシュタイン城(制作年不明)

ドイツ観光の中でも屈指の人気スポットであるノイシュヴァンシュタイン城を描いた本作。

1904~1922年代の作品には、ほぼすべてに「A. Hitler」の署名が書かれており、本作もその時期に制作されたと予想されます。

 

2015年6月18日~20日にドイツ南部ニュルンベルクで行われたオークションに出品され、中国のコレクターが10万ユーロ(約1,400万円)で落札しました。

 

花の水彩画(1909年)

本作も、前述したオークションに出品・落札されています。

建物の細かい描写とは反対に、植物の拙い描写からは、ヒトラーが自然のモチーフに無関心だったことが伺えます。

 

霧の中のプラハ(制作年不明)

本作では建築に細やかな筆致が目立ちません。

代わりに、手前と奥で色の濃さや線の強さを変え、遠近法を試みた様子がうかがえます。

この作品も2015年のオークションで落札されています。

 

ウィーン国立歌劇場(1912)

本作は、ヒトラーがウィーンに移住していた頃(1908〜1913)に描かれた作品で、建築描写へのこだわりが伺えます。

一方で、人間への描写にはまったく興味が無いことが見て取れる作品です。

 

Musician by Old Town Well(1910~1912)

人物を中心に据えた珍しい風景画です。

しかし画面のほとんどは建築で構成されています。

 

Large Colored Pansies(時代不明)

花瓶に生けられたパンジーを描いた作品です。

画面左には風に揺れているカーテンが描かれていますが、動くものを描く技術の高さは見てとれません。

ヒトラーの他作品にはない鮮やかな色使いが特徴です。

 

Country Church(1914)

街全体が霧に包まれたような印象を与える本作。

柔らかいタッチで描いた木々の葉とは対照的に、建築の屋根が精密に描かれています。

 

ヒトラーの絵に関するおすすめ書籍

暴力と芸術―ヒトラー、ダリ、カラヴァッジォの生涯

ナチス党首になった貧乏画家ヒトラー、サディスティックな扇動画家ダリ、殺人事件を犯した画家カラヴァッジョ、この3人の画家の人生と作品から、暴力と表現の真相に迫まろうとするのが本作です。

著者は美術ライター・伝記作家の勅使河原純で、彼の美術への知識と考察も見どころです。

暴力と芸術―ヒトラー、ダリ、カラヴァッジォの生涯

2,200円 (税込)

 

まとめ

今回は、ヒトラーの生涯と彼の描いた作品についてご紹介しました。

ヒトラー率いるナチスの独裁政権のもと、制作を禁じられ「退廃芸術展」で晒し者にされた多くの芸術家はドイツ国外に亡命し、国内に留まったユダヤ系の芸術家たちは強制収容所へ送られるなど、過酷な運命を辿りました。

ヒトラーの作品からはあまり才能は感じられませんが、もし彼に才能があってアカデミーに入学していれば、政治家の道を選ばなければ、と考えてしまいます。

 

 

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