2019/01/18

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浮世絵とは? 浮世絵の作り方・歴史について詳しく解説

知れば知るほど奥深い
「浮世絵」の世界を覗いてみよう

「浮世絵」と聞いて、なんとなく「富士山の、あの、波のやつ?」とか「見返り美人や歌舞伎役者の絵でしょ?」とか、日本の絵画の独特な雰囲気を思い浮かべる方は多い事でしょう。

しかし、例えば外国の方に「日本の”浮世絵”とはどのようなアートですか?」と質問されて、すらすらと説明できる方は少ないのではないでしょうか。

浮世絵ってどんな絵なの?どのように描かれるの?何のために描かれたの?どんな人に影響を与えたの?など、知れば知るほど面白い、浮世絵の世界へ今回は皆さんをご案内いたします!

 

「浮世絵」ができるまで

 

『大坂夏の陣図屏風』

長い戦国時代を経て…

浮世絵が生まれたのは17世紀ごろ、江戸時代の事です。
江戸時代の前は長く戦が続く暗い時代。
人々はこの世の事を極楽浄土と対比して、不安定で移ろいやすく儚い「憂世(うきよ)」と呼んでいました。

 

『宮川の渡し』歌川広重

憂世から”浮世”へ

江戸時代になり人々の生活が安定してくると、この世を指す「憂世」はやがて「浮世」という漢字へと変化していきます。

浮世絵の浮世は、元々は「この世」を表す言葉でしたが、転じて「現代風」という意味合いも持つようになり、憂世から浮世に変わっていく時代の中で、その画風にも変化が見られるようになりました。

 


『今様見立士農工商』「商人」三代歌川豊国

江戸で大流行

くっきりとした線と艶やかな色調で彩られ、生き生きと江戸の「今」を描いた絵が、次第に人々の心を掴むようになります。これが浮世絵の誕生です。

浮世絵は最初は本の挿絵から始まり、徐々に一枚絵としての価値を高めていく事になります。

浮世絵は別名「江戸絵」とも呼ばれ、江戸の最先端を行く題材、趣向を凝らした作品を描き人々から愛されました。

 

描かれた町人文化

当時の庶民たちの楽しみは何と言っても「芝居」。
そのため、浮世絵は人気の歌舞伎役者を多く描く事で、今で言う芸能人たちのプロマイドや、ファッション誌のような立ち位置で人々からの人気を集めました。

 

「江戸土産之内」 「絵さうし見世」1861年,落合芳幾

広告メディアとしての役割

初期の浮世絵は墨一色のモノクロでしたが、重ねて摺る「版」の技術が進歩し、浮世絵の製作技法が確立されると、次第にカラー版が出始めます。

本の挿絵から始まり、歌舞伎役者のプロマイドとして人気を集めた浮世絵は、更には広告媒体として活用されたり、風景画として人々に旅気分を味わう楽しみを与えたりと、様々な分野でメディアとしての役割を果たしました。

 

浮世絵の制作工程

 

『今様見立士農工商 職人』三代歌川豊国,安政4(1857)年

浮世絵は、

● 版元(はんもと)
● 絵師(えし)
● 彫師(ほりし)
● 摺師(すりし)

という職人たちの分業によって作られました。
ここからは、浮世絵の制作工程について詳しくご紹介します!

 

1.版元

 

蔦屋

今で言う出版社のような立場で、プロデューサーや編集者のような役割を担っていた版元(はんもと)

版元は職人たちに「こんな浮世絵を出す」という指示を出し、できあがった作品の管理や販売を行っていました。

 

蔦屋重三郎

現代で言う「有名プロデューサー」のように、版元にも有名な人物がいます。

一番有名なのは、東洲斎写楽の役者を世に出した蔦屋重三郎。他にも、葛飾北斎の「富嶽百景」は西村屋祐蔵、歌川広重の「東海道五十三次・有田屋版」は有田屋清右衛門という版元がプロデュースしました。

版元が浮世絵の傑作を生み出すきっかけを作ったと言っても過言ではありません。

 

また、浮世絵には絵師の落款だけでなく、屋号などを意匠化した「版元印」が刷られました。

写楽の浮世絵に捺印された「蔦屋重三郎」の版元印

浮世絵を制作する上で重要なポジションだった版元には、どんな浮世絵が世間から求められているか、常に流行を先取る敏感な感性や、人気絵師を口説き落として仕事を引き受けてもらう手腕が必要でした。

 

2.絵師

 

「江戸名物錦画耕作」喜多川歌麿

浮世絵の元となる絵を描き、現代でいうデザイナーのような役割を担っていた絵師(えし)

下絵は「画稿(がこう)」と呼ばれ、墨一色で描かれました。何度も版元と打ち合わせを重ね、絵のデザインが確定したら決定稿となる「版下絵(はんしたえ)」を製作します。

 

『冨嶽三十六景 東都駿台(校合摺)』葛飾北斎

絵師の仕事は、ここで一旦彫師にパスされ、版下絵を元に「主版(おもはん)」というモノクロ版の浮世絵を摺りだします。

絵師は、出来上がった主版に対して、「ここは朱色、こっちは藍色」と言ったように配色の指示を入れていきます。これを「色さし」と言います。摺師が色付きの版を摺る際にも、絵師は立ち会ってチェックします。

浮世絵の「顔」とも言える絵師の中からは、葛飾北斎・歌川広重など、今でも名を残す巨匠が数多く輩出されました。

 

3.彫師

浮世絵の作成において最も重要な職人と言っても過言では無い、彫師(ほりし)

彫師はまず、絵師が完成させた版下絵をもとに版木を彫っていきます。
版木(はんぎ)とは薄い木の板で、ここに版下絵を裏返しに張り付けその上から彫刻刀で木を削っていきました。

絵師にもよりますが、版下絵は比較的簡単な線で描かれているため、細かい髪の毛の質感や、着物の皺の寄れ具合などは、彫師の手腕が物を言いました。

刷り上がった主版に対して、絵師が色の指示を入れていき、それを元に、彫師は色版(いろはん)というものを製作します。

色版の制作が一番大変でした。3色の浮世絵ならば主版1枚と色版2枚で済みますが、10色ならば9枚も色版を作らなければなりません。

 

現代のようにカラーコピーが簡単にはできない時代、浮世絵はこのように職人が一枚一枚手作りしていたのです。しかし、「版画」という技法によって同じデザインの絵を複製できるようになった事は、その当時は大変画期的な事でした。

 

4.摺師

 

摺師(すりし)は名前の通り、彫師が作った主版と色版を紙に摺る仕事を務めた職人です。今で言う印刷屋さんですね。

なぜ「刷る」ではなく「摺る」という漢字を使うのか?
これは”ばれん”という道具で紙に顔料を摺りこんだためだそうです。

摺師はまず主版を摺り、続いて同じ紙に色版を摺っていきます。
木の伸縮を考慮して、予め水刷毛で水を薄く塗っておくと顔料を乾かした後に紙がよれないんだとか。
浮世絵の顔料(絵具)は、黒は墨を使い、他の色は植物や鉱物からとった顔料に膠(膠)を混ぜて使用しました。

美しく仕上げるためには、摺り面積が小さい順、色の薄い順に摺ったそうです。
時にはグラデーションを出すために刷毛を使ったり、霧吹きを使って色をぼかす技法などを駆使しました。

 

絵師や彫師の立ち合いのもとで摺師は浮世絵を摺っていきます。
いよいよ浮世絵が完成する瞬間です。

絵師の同意が得られれば、初摺りを200枚製作していたんだとか。
売れ筋の絵師や、売れそうな見込みがある浮世絵は200枚よりも多く摺られ人々の元に届けられました。

 

浮世絵の種類・ジャンル

浮世絵にはいくつかのジャンルがあるのをご存知でしょうか?
ここからは、浮世絵の主なジャンルと、それぞれの特徴についてご紹介します。

 

名所絵

『東海道五十三次 日本橋 朝之景』保永堂版は1833年〜1834年,江戸東京博物館蔵

その名の通り日本全国津々浦々の「名所」を描いた風景画です。

江戸時代の庶民の間では旅行も流行っていましたが、金銭的に余裕のある富裕層が楽しめるものでした。
そこで、名所絵を観る事で、旅行へ行けない人々が憧れの地への思いを馳せ楽しむという用途で、数多くの日本の名所の浮世絵が作られました。

また、実際に旅行ができる人々向けに、旅行のためのリーフレットのような役割も果たしていました。

旅行が一般的に広まっていったのには、参勤交代などで各地の大名が江戸へ上がってくるのに、街道が整備された事が大きな要因となりました。
参勤交代に参加する武士のための名所案内、道中案内として始まった「名所絵」でしたら、次第に庶民が名所絵そのものを楽しむように変化していきました。

 


『富嶽三十六景 凱風快晴』葛飾北斎

日本の名所といえば、そう、何を置いても富士山です。

富士山を主役に描いた名所絵、主役ではないものの富士山がさりげなく描かれた名所絵、こういった「富士山」の名所絵が人気を博しました。

最も有名なものとしては、葛飾北斎の「富嶽百景」や「富嶽三十六景」が挙げられます。うねる様な大波と富士山、赤富士など、様々な表情の富士山が描かれています。

 

『東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪』 歌川 広重

他にも、東海道を長年に渡り描き続けていた歌川広重も有名です。
「東海道五十三次」をはじめ、数多くの東海道の名所絵を生み出し、東海道を行き交う人々の生き生きとした様子をリアルに描写しています。

名所絵は、観光名所だけではなく、伝説奇譚のいわれのある場所、田園風景や雪景色、雨の降る風景に傘をさす人々など、想像力をかきたてるようなものから、日常を描き出したものまで、様々な種類があります。

初期の名所絵には美人を入れて描くという風潮があったようですが、葛飾北斎や歌川広重の活躍により、純粋に景色を主役とした名所絵が注目されるようになりました。

 

美人画

 

『雪中美女』歌川広重

美人画は、そのまま「美人」を描いた浮世絵です。
浮世絵の中でも特に人気で、実際に存在する美人たちを描いたものとして、プロマイドのように出回っていました。

美人画のモデルとして取り上げられたのは、人気のある店の看板娘や、町で評判の美人など、巷の有名人たちが中心で、中には遊女や歴史上で「美人」と語り継がれてきた女性(小野小町など)も含まれました。

 

美人画の巨匠といえば、喜多川歌麿です。
歌麿は数多くの美人画を残し、その人気はすさまじいものだったそうです。
有名な作品としては「ビードロを吹く娘」や「寛政三美人」などが挙げられます。

 


江戸時代・18世紀,東京国立博物館・ホノルル美術館・メトロポリタン美術館所蔵


1793年頃,ボストン美術館蔵

美人絵は元々は「女絵」と呼ばれていて、美人に限らず女性を描いたものを総称してこのような呼び方だったそうですが、女性の外見だけでない内面の「美しさ」も描き出しているとされて「女絵」は後に「美人絵」と名を変え、女性を描きだした浮世絵の総称となりました。

 

美人絵には、着物を着飾ってバッチリ決めている女性だけでなく、化粧中の女性や、入浴中の様子、子育てをしている様子など、女性の日常を切り取ったものもありました。
このような美人絵は勿論男性たちの楽しみとなったわけですが、今でいうグラビア写真集のようなものだったのでしょう。

 

役者絵

 

『助六由縁江戸桜』歌川国政

当時民衆たちの間で大変流行っていた歌舞伎の役者たちを描いた浮世絵を「役者絵」と呼びます。
また、広義では「芝居絵」という歌舞伎の舞台そのものを描いたもの、歌舞伎を楽しむ民衆を描いたもの、歌舞伎の大道具や小道具、裏方などを描いたものも含み「役者絵」とする場合もあります。

役者絵は美人絵に匹敵するほど膨大な作品が世に出回りました。
歌舞伎役者たちのプロフィール絵として、プロマイドとして、広告媒体として、歌舞伎業界を支える重要な役割を担っており、看板絵として大きな役者絵が掲げられる事もありました。

 


江戸時代・寛政6年(1794),東京国立博物館蔵

東洲斎写楽は、三代目大谷鬼次の奴江戸兵を描きました。とても印象的な役者絵で、迫力ある隈取と表情のリアルさが圧巻の作品です。
写楽は役者絵を中心に浮世絵界で活躍しましたが、わずか10ヶ月あまりで突然姿を消した謎の絵師としても有名です。

他にも、歌川国芳、歌川芳艶などが役者絵のジャンルで活躍しました。

 

『忠臣蔵 二段目』歌川広重

歌川広重も役者絵(芝居絵)を手掛けており、舞台の造りや芝居の様子が細かく描かれています。こういった手法を見ると、東海道五十三次などの名所絵、つまり風景画で培ってきた「細かく正確な描写」という技量をうかがい知る事ができます。
歌川広重の「仮名手本忠臣蔵 二段目」は芝居絵のひとつで、時代物と世話物のミックスジャンルの演目として人気だったようです。
時代物とは、武士や公家などの物語を演じたもので、世話物は庶民たちの日常を演じたものでした。

役者絵は非常に需要のある浮世絵のジャンルだったため、著名な絵師だけでなく無名の絵師も活躍できる場でした。
役者絵で注目されて名を馳せる夢を抱いていた絵師たちも少なくなかった事でしょう。

 

戯画

 


『北斎漫画』三編 1815年 江戸東京博物館蔵

戯画は、ひと言で言えば「マンガ」の事です。
笑いの要素が強く、洒落の効いたヒネリのある絵が多いです。
くすっとしてしまったり、にやっと笑ってしまったり、そんな「楽しむ」事を目的に描かれた浮世絵のジャンルを「戯画」といいます。

「戯画」と聞くと「鳥獣戯画」を思い浮かべる方が多いと思いますが、これは墨で描かれた絵巻物であって浮世絵ではありません。ここで解説する「戯画」は浮世絵のジャンルとしての「戯画」ですが、「戯画」というジャンルそのものは浮世絵を超えて全ての絵画に共通して存在するため、浮世絵でない「鳥獣戯画」にも「戯画」という言葉がついているのです。

 

『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』歌川国芳

浮世絵の戯画で有名なものは歌川国芳による「寄せ絵」です。
裸の男たちが沢山寄せ集まって一人の男性の顔と手を形成している絵で、人々は「一体何人の男たちが隠れているのか」といった事を数えたりして、この絵を楽しんでいました。

 

また、戯画の王道として「擬人化」という手法があります。
まさに鳥獣戯画の世界ですが、動物や植物、食べ物など、あらゆるものを擬人化して、コミカルに描き出した戯画が人気でした。

 

『道外とうもろこし石橋の所作事』歌川国芳

歌川国芳も「道外とうもろこし石橋の所作事」という作品を残しています。
「とうもろこし」という名が入っている事から分かるように、この作品の主役はとうもろこし。とうもろこしの”ヒゲ”の部分を連獅子のごとく振り回している様を描き出し、歌舞伎役者に仕立てて描いたものです。

 

『東海道五十三次 はんじもの 下』歌川広重,嘉永初期

戯画に似たジャンルに「判じ絵」というものもあります。
これは江戸で人気だったダジャレの言葉遊びで、例えば「10個の目の下にお寺の鐘」の絵は「十(とお)目(め)鐘(がね)」で「遠眼鏡」など、暗号のような絵を解読して楽しんでいました。

 

春画


『袖の巻』鳥居清長,1785年頃

春画は、性的な要素のある浮世絵、要するに現代で言うところの「エロ本」の事です。
ただ、現代におけるエロ本とは描かれた目的や用途が若干異なり、なんと嫁入り道具として使われていた事もあったそうです。

江戸幕府は好色本(エロ本)の出版を禁止していたのですが、それでも民衆の需要はとどまる事を知らず、非公式として出回っていました。
非公式ゆえに幕府の規定を気にせずに作られていた春画は極彩色で派手なものが多く、浮世絵の最新の技術が尽くされた最先端の芸術作品になっていきます。

ただし、幕府に見つかれば罰則を受ける危険もあったため、版元・絵師・彫師・摺師など春画の作成に関わった職人たちは自らの名を春画に入れる事なく、かといって誰が作ったか分からないと、いわゆる「著作権フリー」の状態になってしまうため、隠号というものを使っていたそうです。

 


『蛸と海女』葛飾北斎,1820年

葛飾北斎も多くの春画を手がけました。
「富久寿楚宇(ふくじゅそう)」という作品ではリアルに男女が性交する様子が描かれており、「蛸と海女」という作品では、なんとタコが女性を犯しているセンセーショナルな様子が描かれています。
この「蛸と海女」には、そのシーンを描写したストーリーも書かれているのですが、この文章も北斎が考えたと言われています。

 

『枕辺深閨梅』歌川国芳

歌川国芳も春画を描いています。
「枕辺深閨梅(ちんぺんしんけいばい)」では悪いプレイボーイが女性と交わるシーンが描かれていますが、男性の遊び人らしい雰囲気が伝わってくきます

他にも男性同士やレズビアンカップルの行為を描いた春画も残っていますし、獣姦ものや、野外プレイの様子など、江戸時代の人々の性への関心の高さ、そして性に対する価値観のおおらかさが伝わってくるような自由な春画が数多く存在しています。

 

鯰絵

 

『大鯰後の生酔』

鯰絵(なまずえ)は、かなり狭い浮世絵のジャンルですが、鯰を描いた浮世絵です。
この鯰絵がひとつのジャンルとして確立した理由としては、ものすごく多くの作品が生み出された事と、民衆たちがこの鯰絵を「護符」として持ちたがった事が挙げられます。

鯰絵が登場したのは、安政の大地震の翌日でした。
古くから鯰と地震の関係は人々に認識されており、地震が起こる前触れとして鯰が暴れる事から地震を予知するとも知られていましたし、また、地震は地中で大鯰が暴れる事によって引き起こされるとも言われていました。

そのため、安政の大地震の翌日から、早速絵師たちは鯰の絵を描き浮世絵として世に送り出したのです。

鯰絵の構図は、その多くが鯰を懲らしめているものか、鯰と戦っているものでした。つまり、鯰は「悪」として描かれていました。

 

『新吉原鯰由来』1855年

遊女たちが大鯰の上に群がり懲らしめている「新吉原大なまずゆらい」は作者不詳ですが、今でも鯰絵の代表としてよく知られています。

この鯰絵は庶民たちの人気を集め、鯰絵を持っていれば無病息災のご利益があるとして、人々はこぞって鯰絵を買い求めました。

 

『なんぢうやかじ仮宅』埼玉県立博物館所蔵

そのうちに、鯰絵にもユニークなものが登場し、ただの「悪役」としてではなく、震災復興を手伝うような可愛らしい鯰や、人々に追われて悲しむ鯰など、豊かなキャラクター性をもった鯰たちが鯰絵を飾りました。

ちょうどこの頃、飢饉による財政難などにより美人絵や役者絵、名所絵などに関する様々な規定が幕府から発令されたため、規定の少ない鯰絵が数多く売り出された事も、江戸に鯰絵が広まった一因と言われています。

 

当時活躍した浮世絵師と六大浮世絵師

ここからは、浮世絵で活躍した絵師たちを年代別にご紹介します。

 

 初期(1673〜1763年)
  菱川師宣 鳥居清倍

 中期(1764〜1817年)
  鈴木春信 鳥居清長 東洲斎写楽 喜多川歌麿

 後期(1804〜1859年)
  葛飾北斎 歌川広重 歌川国貞
  歌川国芳 渓斎英泉 葛飾応為

 末期(1860〜1912年)
  河鍋暁斎 月岡芳年

 

また、浮世絵界には六大浮世絵師と呼ばれるレジェンドがいます。

1.喜多川歌麿(きたがわうたまろ)
2.鈴木春信(すずきはるのぶ)
3.東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
4.葛飾北斎(かつしかほくさい)
5.歌川広重(うたがわひろしげ)
6.鳥居清長(とりいきよなが)

の6人です。それぞれどのような絵師だったのか見てみましょう。

1.喜多川歌麿

美人絵を得意とした絵師。
「ビードロを吹く娘」や「寛政三美人」など有名な美人絵を手がけました。
背景に何かを描くのではなく白雲母を散りばめる事で主役となる美人を際立たせる手法を編み出しました。

 

2.鈴木春信

代表作は「中納言朝忠(文読み)」で、美人絵を得意としました。
浮世絵の木版画技術の確立に重要な役割を果たした絵師で、多色摺りの開発に携わりました。

 

3.東洲斎写楽

役者絵を多く手掛けましたが、10ヶ月ばかりで突然姿を消したという逸話が残っている絵師です。売り出した初めのころは、欠点まで含めてリアルに役者を描写する彼の絵は人気がなく、美化した絵の方が人気でした。
時代を経て、彼の絵のリアリティが評価されるようになりましたが、無念の絵師だったのかもしれません。

 

4.葛飾北斎

「富嶽三十六景」や「富嶽百景」などの名作を手掛けた絵師です。
葛飾北斎といえば富士山の浮世絵、というイメージが強いですが、美人絵、役者絵、戯画、春画など幅広いジャンルで活躍しました。

 

5.歌川広重

「東海道五十三次」を始めとする名所絵の名人ですが、彼もまた北斎同様名所絵のみならず、他の様々なジャンルでも活躍しました。
写実的で細かい描写を得意としました。

 

6.鳥居清長

「江戸のヴィーナス」という異名がつくぐらい美しい美人絵を描いたとして世界中から評価されている絵師です。
彼の美人絵は八頭身で描かれたスラっとしたスタイルの良い美人が中心となっており、この美しい体型と凛とした佇まいが高評価を博しました。

 

浮世絵が世界に与えた影とは?

 

日本の浮世絵は海を越えて世界へと広まっていきます。
江戸時代は長きに渡り鎖国をしていたため、外国へ日本のものが流出する事は考えにくいと思われてしまいそうですが、実は、唯一貿易を行っていた長崎とオランダのパイプを通って、浮世絵が海を渡ったと言われています。

それも、作品としてではなく、輸出品の包み紙として使われていたものを、手に取った西洋の画家が見かけて「なんて素晴らしいものなんだ!」と感激した事からヨーロッパへ広がっていったとも言われています。

 

『タンギー爺さん』

特にゴッホは浮世絵の収集に熱心で、自身の作品にも浮世絵が登場する「タンギー爺さん」などがあります。また、浮世絵を直接描いたものではない作品も、見返り美人と構図が酷似している女性の絵画や、浮世絵に登場する蛙などの小動物を取り入れた絵画を生み出しています。

影響を受けたのは画家だけではありません。
フランスの作曲家ドビュッシーは、北斎の「神奈川沖浪裏」からインスピレーションを得て、交響詩「海」を作曲したと言われています。

西洋の人々は、今まで目にした事のない斬新な構図や色使い、画法などに刺激を受け、ジャポニズムと称して一大ブームが巻き起こりました。
1867年にはパリ万国博覧会に出品され、話題となりました。



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