千利休古田織部日本文化歴史茶の湯茶人
CULTURE

有名な茶人7選!千利休・古田織部など有名茶人とその歴史を詳しく解説

心地よい空間でお茶を嗜むひとときは、日本人のDNAに刻まれた愉しみではないでしょうか。

日本文化が世界で注目されている中、茶道は海外の人からも関心を集めています。

毎年全国でお茶の展覧会が開催され、美術館好き、アート好きにとって避けられない分野でもあるでしょう。

そこで今回は、教養として、趣味として、展覧会の前知識として参考になる茶人7名を具体的に解説します。

 

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有名茶人とその系譜

今回は室町、桃山、江戸、明治時代の茶人を7名紹介します。

 

村田珠光(1423-1502)

武野紹鷗(1502-1555)

千利休(1522-1591)

古田織部(1544-1615)

小堀遠州(1579-1647)

益田鈍翁(1848-1938)

原三溪(1868-1939)

 

:侘び茶の大成までを築いた茶人

:三大茶人と謳われる者

:明治時代に茶の湯を盛り上げた茶人

 

村田珠光(むらたじゅこう)

茶の湯の黎明期を一身に背負うのが村田珠光(1502-1423)です。

「茶禅一味」(ちゃぜんいちみ)の言葉で知られる、禅と茶の湯の結びつき。

不完全、非対称、枯淡な美の発見。

そうした侘び茶の骨子とも言うべきポイントは、珠光に始まったといわれます。

珠光の父・村田杢市検校(もくいちけんぎょう)は、東大寺あるいは春日大社に関係した僧らしく、珠光もまた11歳のときに奈良の称名寺に出家し、「珠光」と名乗りました。

しかし、「20歳のころから出家を嫌い、俗世界を好んで寺の役目を怠る」との理由で寺からも親からも勘当され、京都に上ったようです。

足利義政(1436-1490)の同朋衆(どうぼうしゅう、美術顧問的官僚)の能阿弥から茶と花を、破格の禅僧・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から禅を学びました。

 

珠光と侘び茶の黎明期

珠光の若い頃、奈良や京都の庶民の間で盛んだった茶の湯は、侘びの「わ」の字もないものでした。

たとえば、寺の境内や路上で人が寄り合う茶飲み宴会のようなもので、酒があれば一緒に飲んだのでしょう。

そこから出発した珠光が、同朋衆として大人しく御殿(ごてん、 身分の高い人の邸宅)で仕え、淡々と生活したとは思えません。

珠光は職業茶人の元祖で、茶道具の鑑定や茶事作法を教え、金銭を得ていました。

公家、武家から町衆まで、さまざまな階層の人々とエネルギッシュに交わりながら、自身の創意工夫による新しい茶を見出します。

 

珠光は足利義政と同時代を生きた人ですが、両者には多くの交流があったとは思えません。

その頃の京都は二条辺りを境に、住民の階層、職業、生活文化がはっきり分かれていました。

上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)でした。

公家、将軍家はじめ上流階級が住む雅な「上」に対して、「下」の住民は商工業者、町衆。

そして、珠光の活躍の場は下京(しもぎょう)です。

では、珠光が体現した「下京の茶」とはどういうものだったのでしょう。

 

それは「選びきる」茶です。

上流が住む御殿とことなり、町家の狭い茶室では、たくさんのものは飾れません。

三幅対(さんぷくつい)ではなく、ただ一枚の絵を掛ける。

花も一輪、茶碗もひとつに選びきる。

「上」の唐物趣味ではなく、珠光が導いた下京の茶が、侘び茶を形成していきます。

 

珠光青磁(じゅこうせいじ)

この系統の器を珠光が抹茶茶碗に採用したことにより命名されました。

珠光青磁は宗元時代に南方(福建省あたり)の窯で焼かれた茶碗で、色はくすんだ緑か黄色、浅い作りで、外側には櫛目(くしめ)模様、見込み(内側)には引っ掻き模様があります。

鎌倉時代の遺跡からもたくさん出土しているので、おそらく日本でもありふれた器だったのでしょう。

珠光はそれを茶の湯の茶碗に用いました。

珠光以前、茶の湯は唐物の名品を持たないとできませんでした。

それに対し、日本の焼き物の持つ素朴な美しさにも関心を寄せることが肝心だとして、新たな美意識を茶の湯の世界にもたらしました。

 

武野紹鷗(たけのじょうおう)

武野紹鷗(1502-1555)は、大和国(現在の奈良県)吉野郡に生まれました。

父は堺の豪商・武田信久(のぶひさ、11歳のときの応仁の乱で親族を失い、大和国の豪族・中坊氏の庇護を受ける)、母はその中坊氏の娘で、紹鷗は通称を「新五郎」といいます。

信久が姓を武野に改めたとされ、堺に移り住み、武具甲冑の製作販売の「皮屋」(かわや)を興しました。

三好軍の政商として軍事物資の調達で財を成します。

当時のの町は中央を東西に走る大小路という通りの北側が摂津国に属する「北庄」、南側が和泉国に属する「南庄」(みなみしょう)に分かれていて、紹鷗は豪商が多く住む南庄の舳松(へのまつ)の住人でした(後の千利休、今井宗久らも南庄住まい)。

 

信久は、24歳になった新五郎に「皮屋」の跡取りとしての十分な教養を身に付けさせるため、京に留学させました。

京に上った紹鴎は27歳で、和歌の第一人者の公家・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に師事します。

和歌の古典を学び、藤原定家の「詠歌大概之序」(えいがたいがい、鎌倉時代中期の歌論書)を伝授され、連歌文芸などへ傾倒しました。

ちなみに、当時の京の公家たちは荘園からの年貢が滞って経済的に困窮しており、裕福な商人に和歌や連歌などを教えるなどして糊口(ここう)を凌いでいたといいます。

 

実家の豊富な資金力もあり、紹鷗は三条西実隆への豪華な贈り物や朝廷への献金を行いました。

29歳の時に「従五位下 因幡守」の官職を授けられています(「五位」とは昇殿が許されるいわゆる「殿上人」です)。

紹鴎はこの後、村田珠光の高弟・藤田宗理に師事して茶の湯で生きる決意をかため、官位を捨て大徳寺で剃髪します。

「紹鷗」はこのとき与えられた法名です。

京に屋敷「大黒庵」(だいこくあん、上はその跡地)を構え、茶の湯一途の生活をおくり、父から譲られた財力で唐物の天目茶碗の名品や雪舟などの墨書を買い集めました。

 

「茶禅一味」のわび茶

わび茶の開祖・村田珠光の茶風を継ぎ、茶の湯の簡素化をさらに進めた紹鴎。

多くの門弟を得て珠光の茶の湯、「茶禅一味」(ちゃぜんいちみ)のわび茶を深めていきます。

唐物の古典的な美しさに惹かれながらも、国産の雑器なども積極的に使用した華やかな道具立てで、独自の境地を開拓しました。

1539年、紹鷗は父・信久が病没したため堺に戻り、南庄舳松に大徳寺の禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)を招き、小さな坊院・南宗庵を開きました。

紹鷗は4畳半の茶室に白木の釣瓶(つるべ、井戸水をくみ上げるのに使う桶)を水指に見立てたり、青竹を切って蓋置(ふたおき)にするなど、清楚な美しさを茶の湯に取り入れ、茶の湯の形を大きく変えていきます。

こうしたことが千利休に伝えられました。

弟子には利休をはじめ娘婿の今井宗久津田宗及などの堺の豪商や、荒木村重などの戦国武将たちも数多くいました。

 

唐物茄子茶入 「紹鴎茄子」

ソース

「紹鷗茄子」は全体を飴色の下地にして、肩先から釉薬(ゆうやく)が、三筋のなだれ風におりていきます。

底あたりでぼてっと溜まっている様子が美しい、唐物茄子茶入を代表する名品です。

大きさはやや小振りながら形は端正な姿で、肩が張っておらず、ほんわかな丸みを帯びている形は、他の茶入ではあまり見られません。

紹鴎が所持したことから「紹鴎茄子」と呼ばれます。

紹鴎の後は、今井宗久、織田信長、豊臣秀吉に渡り、今は湯木美術館が所有しています。

茶会記の記録には1549年の武野紹鴎茶会をはじめとし、1587年の北野大茶之湯など、数多く用いられています。

 

千利休(せんのりきゅう)

千利休(1522-1591)は茶の湯の大成者です。

幼名を与四郎といい、「納屋衆」と呼ばれる倉庫業と魚問屋を営む堺の商人の家に生まれました。

姓は初め田中といいましたが、祖父の名の千阿弥から千姓を名乗ったといいます。

茶の湯は、堺の町衆だった北向動陳(きたむきどうちん)と武野紹鴎に学びました。

そもそも堺の商人達は、畿内に勢力をふるい、武士たちと密接な関係を結んできました。

織田信長に従属した堺の町衆(まちしゅう、町に居住する商人や手工業者)は、信長の指揮下にある武将らと積極的に交わり、利権の獲得に努めました。

後に、津田宗及(そうぎゅう)、今井宗久(そうきゅう)、千利休の三人が信長に茶頭(さどう、茶事をつかさどるかしら)として用いられることになりますが、武将たちと堺の商人との間にやがて党派が生まれていきます。

中でも津田宗及と明智光秀は親密な関係で、豊臣秀吉と利休の関係も次第に深くなりました。

 

秀吉は、貧しい出自や教養の乏しさへの後ろめたさもあってか、茶の湯に関心を寄せました。

利発で気が利きエネルギッシュな秀吉に、利休は自らを重ね合わせ、商人特有の勘でこの男に賭けたのでしょう。

秀吉は天下人となり、利休は天下一の宗匠(そうしょう)として茶の湯の世界に君臨しました。

しかし、政治的・社会的理由などいくつもの要素が重なり、秀吉と利休の蜜月にやがて破局が訪れます。

秀吉は利休に自刃(じじん)を命じました。

皮肉なことに、利休の自刃後も秀吉は侘び茶の境地に心ひかれ続けたようです。

 

「人」により完結する茶の湯

利休は茶の席で積極的に国産の道具を用いました。

これこそ、利休の茶の湯の真骨頂です。

彼は道具をつくり、取り合わせをすべて和物とする創作的な試みをしました。

それまでのお茶は、唐物(中国から輸入された古美術)を味わい、名物道具を持っていなければ茶人にあらずと言われた時代でした。

しかし利休は、お茶のそのもの、あるいはそこにいる人に意識がいくような道具を考えました。

道具自体の主張を抑えることで、人のふるまいによって完結するお茶を完成させました。

 

侘び茶

室町時代の貴族や武士の間で、中国の豪華な茶器・唐物を集めるような美術品鑑賞としての茶の湯が広まる一方、室町時代中期以後には村田珠光・武野紹鴎らによって、簡素で静寂さを感じる道具を使う新しい茶の湯が開かれました。

それが「侘び茶」です。

村田珠光は「月も雲間のなきは嫌にて候」といい、輝く月よりも雲の間に見え隠れする月の方が美しい説き、不足した美を味わう精神を侘び茶の中に見出しました。

そして珠光の茶の湯をさらに進めたのが紹鴎で、彼に茶の湯を学んだのが千利休です。

 

簡素枯淡で冷厳ながらも充実した引き算の美。

利休は人びとのつながりを中心とした緊張感のある茶の湯を目指しました。

また、自らの審美眼により数々の道具を作るなど、それまでの茶の湯には見られなかった姿勢で、侘び茶を大成しました。

 

黒楽茶碗 銘「大黒」

ソース

利休が長次郎に作らせた楽茶碗「大黒(おおぐろ)」。

半筒形で左右対称の宗易形(そうえきがた)と言われる茶碗のなかでも、利休の創作的な茶碗の典型作です。

お茶のための道具を探求した晩年の利休の思想を具現化したもので、黒楽茶碗としては比較的初期作だと思われます。

数ある長次郎茶碗の中でも、最も確かな伝来を誇り、色みやデザイン・造形性を徹底的に抑制した姿です。

 

古田織部(ふるたおりべ)

千利休の後継者と目された江戸初期の武将で茶人・古田織部(1544-1615)は、美濃に生まれました。

織部というのはのちの官名で、本名は左介。

父・古田重定(しげさだ)は、勘阿弥という名の同朋衆として秀吉に仕えました(その前はおそらく信長に仕えたのでしょう)。

織部は織田信長の摂津攻略以降、これに従って活躍し、着々と武将としての地位を固めていきました。

つぎに豊臣秀吉に仕えて軍功を上げ、1585年、秀吉が関白の地位につくと左介は従五位下織部正(おりべのかみ)に任ぜられます。

織部もまた、秀吉と同じく信長膝下にあって、茶の湯のとりこになった人物のひとりです。

 

利休と織部、二人の茶人

織部がいつ頃から利休に茶を学んでいたかはつまびらかではありませんが、秀吉の小田原攻めに従った利休から武蔵国を移動しながら戦っていた織部へ宛てた手紙「武蔵鐙の文」には、利休と織部のかなり親密な関係がうかがえます。

秀吉からとがめられ死を覚悟して堺に下る利休を、淀(よど)の舟着き場まで見送ったのは、利休に師事した細川三斎(ほそかわさんさい)と織部のふたりでした。

利休の死後、秀吉は茶頭である織部に「利休の町衆風の茶を武家風、大名風に改革せよ」と命じます。

こうして織部は、歪みや焼け損ないに美を見出し、また美のためには破壊もする、破格の茶を展開していきました。

 

織部焼

織部焼と茶人・織部との関係ははっきりとわかっていません。

織部自身が土を捏ねたとは思えませんし、織部が指導したという根拠もありません。

織部が絵付けしたと伝わる織部暦手(こよみで)などの茶碗(上)が、織部と織部焼とを関係づけています。

 

織部焼が織部からとったかは謎ですが、信濃の元屋敷窯(もとやしきとうきかま)で織部焼が始まったのは、茶人としての織部の絶頂期でした。

激しいデフォルメと型破りな意匠、ゆがんだ形に味わいを見せる織部沓茶碗(くつちゃわん、上画像)。

織部が実際に関わっていたかはわかりませんが、織部の名を冠したこれらの茶碗は、織部が代表した時代の感性が求めた美しさだったのでしょう。

 

小堀遠州(こぼりえんしゅう)

江戸初期の大名茶人・小堀遠州(1579-1647)は、幼名を作介といい、近江国小堀村(現・滋賀県長浜市)に生まれました。

この時天下を取っていたのは織田信長。

遠州が4歳の時に本能寺の変が起こり秀吉の時代へ。

遠州が13歳のときに千利休が切腹。

19歳の時に秀吉が没し、22歳の9月に関ヶ原の戦いを迎えます。

そして25歳の時に徳川家康が征夷大将軍となりました。

このように遠州が生きた時代は、群雄が割拠する戦国末期を経て豊臣から徳川へと変わる乱世のまっただなかでした。

徳川秀忠が二代将軍となった後、1608年、駿府(すんぷ、 静岡市の旧称)城を修理した功績が認められ、従位五位下遠江守(じゅごいのげとおとうみのかみ)に取り立てられたことにより、「遠州」として活躍しはじめます。

 

幼少の頃より父・新介の英才教育を受け、10歳のとき大和郡山(やまとこおりやま)城で利休の茶を実際に見て以来、茶の湯に関心をいだきます。

古田織部に師事し、織部流を根幹にしながらも利休の茶の湯も取り入れ、自身の茶の湯を形成しました。

生涯に400回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層でした。

書画、和歌にもすぐれた遠州は、徳川三代将軍・家光の茶道師範を務める当代一流の茶人として「綺麗さび」と呼ばれる簡素でありながら有心の茶道を創り上げました。

 

「綺麗さび」

古田織部による茶の湯伝授ののち、自身の「綺麗さび」を確立したのは40代後半からで、茶匠として天下一とみとめられたのが50代とされています。

千利休が完成した侘び茶を古田織部が武家、書院の豪快な茶に生かし、遠州はそれを継承しながら、利休の茶の心に戻り宮廷風の大名茶「綺麗さび」を完成させました。

これでは少し感覚的に分かりにくいので、利休の「わび」とくらべその意味を見ていきます。

 

紅梅一輪の逸話

利休は「雪も花であるから、雪の日に茶室の床の間には花は不要だ」といいました。

露地で美しい雪の花を見た上に、さらに茶室で花を愛でる必要はない、ということでしょう。

しかし、実際の雪の日に露地を通り茶室に入った時、床に何もないのでは、利休のように茶の湯に精通した人ならともかく、普通の人はなんとも寒々しく感じるのではないでしょうか。

そこで、遠州は利休の心は心として、雪の日には床の間に紅梅一輪だけを生けなさいと、そうすれば客はきっと心が温まり豊かな思いがするでしょう、といったそうです。

遠州は「心のうちから綺麗」ということを門人たちに伝えました。

そういう有心を求めるのが「綺麗さび」なのです。

 

本手利休斗々屋茶碗(ほんてりきゅうととやちゃわん)

遠州が好んだ茶碗は、均整のとれた形と、洗練された装飾性を持つ茶碗でした。

高台が低い土見せで、腰から口にかけてゆったりと開く姿をしています。

また、薄造りで光沢のある明るい枇杷色の肌など、ほかの斗々屋茶碗には見られない独特の作りです。

利休斗々屋の名称は諸説あり、利休が堺の魚屋(ととや)で見つけたことに由来するともいわれています。

この茶碗は、利休から古田織部、小堀遠州など、著名な茶人が代々所有しました。

 

益田鈍翁(ますだどんおう)

三井物産初代社長で、近代の茶人として有名な益田鈍翁(1848-1938)。

本名は益田孝(たかし)といい、新潟の佐渡で生れました。

父の仕事で上京した鈍翁は、ヘボン塾(現・明治学院大学)で英語を習得し、アメリカ公使館に勤務します。

父とともにヨーロッパも歴訪後、陸軍に入隊しますが、明治維新の際に井上馨(かおる)に才覚を認められて大蔵省へ入省。

1876年、井上馨と外国貿易会社「三井物産」を創業し、初代社長に就任します。

三井財閥の発展に尽力した実業家であり、美術品を多く蒐集しました。

 

明治維新後の茶道ブームを興す

鈍翁は40歳のころ茶の湯を始めました。

鈍翁が勤めた三井家は代々茶の湯をたしなむ一家。

それを知った鈍翁のが、「美術品の収集はするのに、なぜ茶の湯をしないのか」と言ったのがきっかけのようです。

茶人としては「鈍翁」と号し、常識にとらわれない斬新な思考で明治維新後の茶道ブームをおこしました。

収集した茶器の1つ「鈍太郎」を気に入り、「鈍」の字と「翁」を組み合わせて「鈍翁」としたのが、名前の由来です。

 

茶の湯は表千家不白流の川上宗順に学びました。

名高い実業家や著名人を招き、空海(弘法大師)追悼と古美術の鑑賞を目的に大師会・光悦会などの近代を代表する大茶会を催し、茶道復興に大きく貢献しました。

それは招かれること自体がステータスとなるほど有名な茶会で、実業家たちがお茶をするようになったのは、鈍翁がきっかけといわれています。

 

絵巻切断エピソード

鈍翁の有名なエピソードに、「佐竹本三十六歌仙」(さたけぼんさんじゅうろっかせん)があります。

飛鳥時代から平安時代に活躍した歌人を題材に描かれた絵巻《佐竹本三十六歌仙絵》。

これを所持していた実業家・山本唯三郎は、経営不振で売却を決意します。

高額すぎてなかなか買い手が見つかりませんでしたが、鈍翁は海外流出を恐れ、「絵巻を一歌仙ずつ三十六枚に切断し、それぞれくじ引きで入手者を決めよう」と買い手がなくて困っていた古美術商に提案しました。

分割された作品にはそれぞれ異なる値段が付けられ、その総額は現在の金額でおよそ数億〜数十億円に及ぶそうです。

 

井戸茶碗 銘「翁」

明治時代に茶道具の蒐集にのめり込み、自宅で定期的に茶会を開いていた鈍翁。

数々の名品を集めましたが、その多くは他人のもとへ渡っています。

過去に鈍翁が所持していた有名な茶碗が《井戸茶碗 銘 翁》

益田鈍翁の遺愛品で、蓋表に金泥(きんでい)で右に「翁」、左に「井戸」と記された内箱が残っています。

枇杷色の肌がなんとも美しい一碗です。

 

原三溪(はらさんけい)

富岡製糸場のオーナーで、生糸王(きいとおう)と称された原三溪(1868~1939、本名は原富太郎)は、明治から昭和にかけて活躍した実業家です。

三溪は、岐阜県の厚見郡佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々庄屋(しょうや、江戸時代の一村の長)を務めた青木家の長男として生まれました。

祖父と伯父が南画家という芸術一家に育ち、幼少の頃から絵、漢学、詩文などに親しみました。

17歳で東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、政治・法律を学びます。

1888年頃に私立女子校・跡見学校の助教師となり、跡見学園の創立者で、書家でもある跡見花蹊(あとみかけい)を通じて、横浜の生糸商の原善三郎の孫・屋寿(やす)と結婚し、原家に入籍します。

原家は、その当時横浜で主要貿易品の生糸を扱っていた有力5家のひとつでした。

 

義理の祖父・善三郎の没後に会社を改組し、富岡製糸場を三井家から譲り受け、発展させます。

生糸輸出を始めるなど、実業家として成功を収めました。

実業以外にも様々な面を持ちあわせた三溪。

横浜市にある日本庭園「三渓園」は有名です。

 

ここは、もともと三溪の自邸でした。

1906年には三溪園を無料開園し、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。

また、若くて有望な日本画家たちを経済的に応援するなど、近代美術・茶の湯の世界に名を馳せた著名なコレクターの一人です。

 

近代数寄者

原三溪は、鈍翁の茶会に参加していた近代数寄者(茶の湯を趣味とする名物道具の収集家)のひとり。

20世紀初頭の急速な近代化の最中、伝統的な日本への関心がうまれ、それは茶の湯への回帰につながりました。

近代茶道界を牽引したのが、三渓などの財界人や実業家などの数寄者たちです。

彼らは、茶の家元や宗匠のように茶道を本業とする人とは別の立場で、あらたな美意識の見出していきます。

具体的には、茶道の世界に「日本美術」を取り入れました。

江戸時代の茶道具は、実用に即し、茶道の決まりの範囲での純粋な道具です。

しかし豊かな財力をもつ数寄者たちは、茶席に日本美術の名品を置き、懐石・点前といった日本の美の型のなかで、「美術鑑賞」をおこないました。

 

井戸茶碗 銘 「君不知(きみしらず)」

ソース

井戸茶碗は高麗茶碗の一種で、朝鮮半島で焼造された器です。

室町時代に日本にもたらされ、本来は茶の湯用として作られたものではなく雑器であったものが、桃山期の武将や茶人の好みにかない抹茶茶碗として珍重されました。

銘の君不知は鷹の翼裏の模様のことで、最上級の矢羽根(やばね)とされます。

三溪はこの茶碗を長男・善一郎の追善茶会の薄茶器として用いました。

招待客には追善と知らせず、開催中にも一切そのことには触れなかった三溪。

道具にその悲しみや悼む気持ちを込めたのでしょう。

 

まとめ

茶の湯が最盛した桃山時代。

日本の侘び茶は、珠光から端を発し、利休で大成しました。

織部は、利休とは違った破格の茶を展開し、遠州は唐物の茶碗が好まれた時代から、和物へ舵を取りつつも、雅さを忘れずに進みました。

そして近代、鈍翁や三渓などの実業家が茶の湯を現代に引き継ぐ役割を果たしました。

茶人を知ることで、その時代の背景と茶器に閉じ込めた革新性が見えてきます。

今回紹介した茶人の茶器などを観るとき、鑑賞の役に立てば幸いです。

 

 

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