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長谷川等伯とは?絵師の生涯と国宝「松林図屏風」など代表作品について詳しく解説!

日本最高峰の水墨画と称されている国宝「松林図屏風」。

誰もが一度は教科書で観たことがあるのではないでしょうか。

「松林図屏風」を描いた画家、長谷川等伯は、豪壮で華麗な桃山文化を生き抜いた絵師です。

能登から京に上洛し、最終的には豊臣秀吉の御用絵師まで上り詰めまた人物として知られていますが、未だにその生涯は謎に包まれています。

今回は、そんな長谷川等伯の生涯と代表作品、作風の特徴についてご紹介します。

 

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長谷川等伯とは

桃山時代に活躍した画家

群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の安土桃山戦国時代、その中でも桃山時代に活躍した長谷川派の初代絵師、長谷川等伯。

能登の出身で33歳の時に上洛し、千利休や豊臣秀吉を後ろ盾に、狩野派に対抗する勢いで有名絵師の座を上り詰めました。

牧谿(もっけい)、雪舟らの水墨画に影響を受け、晩年には自らを「雪舟五代」と称して、自らの画系と家系の伝統、正統性を宣言しました。

 

一代で「長谷川派」を確立

等伯は一代で「長谷川派」を確立し、狩野派と対抗するまでに成長させました。

等伯の後継として、将来を嘱望されていた長男久蔵が選ばれましたが、久蔵は26歳の若さで急死してしまいます。

次男の宗宅が一時家督を継ぎますが、等伯の死の翌年に宗宅も亡くなり、その後は「雪舟六代」を称した左近が跡を継ぎ、俵屋宗達風の装飾性に等伯の画風を受け継いだ作品を残します。

等伯が一代で築いた長谷川派は江戸時代初期まで続きました。

 

豊臣秀吉や千利休に重用される

室町時代の足利将軍家以来、当時の有力武将たちは自らの権力を誇示するためにお抱えの絵師や職人に依頼し、美術や工芸品の制作を依頼していました。

上洛後の等伯は、日蓮宗の高僧や武将、堺の町衆と交流を持ち、千利休や大徳寺の僧侶らの肖像画の制作を手掛けるようになったことを足掛かりに、豊臣秀吉から金碧障壁画の制作を依頼されるまで上り詰めました。

 

長谷川等伯の生涯

10歳後半から養父より絵の手ほどきを受ける

天文8年、1539年に今の石川県七尾市がある能登国七尾で生まれました。

能登国の戦国大名・畠山氏に仕える下級武士の子として生まれますが、幼いころに染物屋を営む長谷川宗清(宗浄)の養子となりました。

宗清は熱心な日蓮宗の信者で、雪舟の弟子・等春の門人として仏画を描いていました。

等伯も養父から手ほどきを受け、日蓮宗関係の仏画や肖像画などを描き始めます。

 

33歳で京都へ上洛

信春(のぶはる)と名乗り、日蓮宗の仏画を描き生計を立てていた等伯。

しかし戦乱の影響により仕事も減ってしまい、養父母も亡くなってしまいました。

そこで妻子を連れて一念発起、京都へ上洛し、日蓮宗の寺院・本法寺を頼って制作活動を行いました。

一時は狩野派でも学んでいましたが離脱し、様々な画派や中国絵画の表現を吸収していきました。

この頃に描かれたのが「日堯上人像」です。

日堯上人は当時の本法寺の住職で、等伯が上洛した翌年に30歳の若さで亡くなりました。

 

千利休に才能を見いだされる

本法寺の住職、日通上人と等伯は生涯交流を深めていました。

等伯の良き理解者であった日通上人は大坂の堺の油屋出身だったこともあり、等伯は堺の商人たちとも交流を結ぶようになります。

当時の堺は一大商業都市として栄えており、「曜変天目」「灰被天目」「青磁柑子口花入」などを所持していた油屋は、織田信長や豊臣秀吉などの権力者たちとも茶の湯を通じて関わりを持っていました。

日通上人を通じて等伯が出会ったのが、その後の大茶人・千利休でした。

 

狩野派を抑えて寺院の仕事を得る

当時は狩野永徳率いる名門絵師集団狩野派が君臨しており、時の有力公家、大名たちの屋敷や寺院の障壁画などに携わっていました。

しかし千利休との交流により見出された等伯は、1589年に利休が施主である大徳寺の天井画と柱絵、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画「山水図襖」を描き、一躍有名絵師の仲間入りを果たすことになりました。

等伯という画号を使うようになるのは、これからまもなくのことです。

 

絵師として天下一の栄華を極める

有名絵師の仲間入りをした等伯は、大名・前田玄以と山口宗永に働きかけ、秀吉が造営する後陽成天皇御所の仙洞御所対屋(たいのや)の注文を得ることが出来ました。

しかしこれを知った狩野永徳は「宮中の仕事を奪われてはならない」と働きかけ、結果、等伯の仕事は取り消されてしまいます。

その後、狩野派は永徳が40歳の若さで急死したことにより一時的に力が弱まりました。

秀吉は息子・鶴松を弔うための菩提寺・祥雲寺(現・智積院)を建立し、等伯に障壁画を依頼します。

秀吉の期待に応え、等伯が描いた「楓図」は現在、国宝に指定されています。

 

苦境の中で名作を次々に制作

今を時めく有名絵師として順風満帆な等伯でしたが、私生活では不幸に見舞われていました。

父・等伯譲りの才能豊かさで「桜図」(国宝)を制作した跡継ぎ、久蔵が26歳という若さで亡くなり、等伯の後ろ盾であった千利休は秀吉の命により切腹してしまいます。

後に秀吉も亡くなりますが、等伯はその後も筆を止めることなく制作を続け、「松林図屏風」(国宝)、京都の三大涅槃図に数えられている「仏涅槃図」を描いています。

 

晩年

等伯は自身を雪舟から5代目にあたると標榜し、「雪舟五代」の落款を使用するようになりました。

これが功を奏し、等伯は法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼されるようになりました。

しかし豊臣家滅亡後、権力は徳川家康に移ります。

長谷川派も新たな後ろ盾探しが急務となり、家康に招かれたこともあり江戸に下向しました。

すでに70歳を超えていた等伯は旅の途中で病に侵され、江戸に到着した2日後に亡くなってしまいます。

1610年、享年72歳でした。

 

長谷川等伯の作品の特徴

力強く優美な表現

等伯や狩野派は漢画に大和絵の手法を取り入れ、優美な表現で御用絵師として活躍していました。

安土桃山時代は豪華絢爛で華麗な作風が織田信長や豊臣秀吉に好まれており、等伯も時の権力者たちが好むような、金箔銀箔を貼った華麗で装飾性の高い作品を描いていました。

 

ダイナミックな構図

等伯は金碧障壁画などの大画様式はもちろんのこと、水墨画でも新たな境地を切り開き、異なる様式でありながら自らのものとし、大胆に描いています。

「楓図」では、秀吉が好んだ松の木に豊臣家と対立する徳川家の葵を描いています。松の木が大きく枝葉を広げて葵を抑え込んでいるように見える構図で、これが秀吉を喜ばせました。

後に、徳川家康は「葵が松の木を凌駕しているように見える」とこれを解釈し、「楓図」は破棄されることなく今日まで残っています。

 

モノクロの水墨画を生き生きと見せる躍動感

鎌倉時代に中国から伝来し、室町時代に禅宗寺院を中心に発達した水墨画。

等伯は中国の禅僧画家・牧谿(もっけい)の水墨画に影響を受け、室町時代の画僧・雪舟の五代目と称し画業と家系を正当化させます。

また息子の久蔵が亡くなって以降は、水墨画を多く手掛けるようになりました。

等伯は墨の濃淡で描き分ける水墨画にモチーフに身近な対象物を選び、日本独自の感性で生き生きとした作風で革新をもたらしました。

 

長谷川等伯の代表作品10選

日蓮聖人像(1564)

鎌倉時代に生きた日蓮宗の宗祖である日蓮を描いた「日蓮聖人像」。

富山県高岡市にある日蓮宗・大法寺の依頼を受けて制作された「日蓮聖人像」は、当時「信春」と称していた等伯によって制作されました。

日蓮は七条袈裟、法服、横被を着けた正装姿で右手には扇子を、左手には法華経一巻を持っています。

丁寧に描かれた日蓮像は、等伯の信仰の深さを表しているように重厚感があります。

 

涅槃図(1568)

沙羅双樹の木の下で、信者や動物たちに囲まれた仏陀が涅槃に入るところを描いた「涅槃図」。

涅槃図を所蔵している寺院では仏陀が亡くなったとされる旧暦の2月15日(新暦の3月15日)に執り行われる法要の涅槃会で掲げられることが多くあります。

この「涅槃図」は等伯が30歳の時に描いた作品です。

現在は石川県妙成寺が所蔵しており、等伯が初めて挑んだ涅槃図の大作と言われています。

 

大徳寺三門天井画・柱絵(1589)

千利休に見いだされた等伯は、大徳寺に増築される三門の天井画と柱絵を任されました。

天井画には鮮やかな龍が描かれています。

その後、この三門には利休自身の木像が設置され、三門を通るものは必然的に利休の像の足の下をくぐることになるため、それに怒りを覚えた秀吉に切腹を命じられ、利休は大徳寺で死を迎えます。

等伯の出世の第一歩となった大徳寺は、彼が大きな後ろ盾を失った場所でもありました。

 

花鳥図屏風(制作年不詳)

水墨画で描かれた「花鳥図屏風」は、制作年は不明ですが若年期の作品と伝わっています。

六曲一隻の屏風に描かれているのは、大きな幹を持つ梅の木です。

竹や鳥のみに着色されており、その部分が鮮やかに生き生きとしています。

梅の木が左側に大きく描かれている構図から、元々は左右両隻あったのではと推測されています。

 

旧三玄院山水図襖絵(1589)

大徳寺三門天井画・柱絵を手掛けた等伯。

建立されたばかりの大徳寺の三玄院の襖に目を付け、襖絵を描かせてほしいと住職・春屋宗園に懇願しました。

しかし宗園は「ここは修行の場である」と断り続けました。

等伯は宗園の不在を狙い、許可なく襖絵に絵を描いてしまいます。それが「山水図襖絵」です。

桐紋を牡丹雪に見立て、雄大な冬景色の「山水図襖絵」を見た宗園は、見事な出来栄えに等伯の勝手を許したと伝わっています。

 

楓図(1593)

豊臣秀吉が夭折した愛息・鶴松のために建立した祥雲寺(現・智積院)の障壁画は長谷川派が手掛けることになりました。

等伯の息子で将来を嘱望されていた久蔵は25歳の時に「桜図」を描き上げますが、その翌年に亡くなってしまいます。

その悲しみを振り切り、自らを鼓舞するように描いたのが「楓図」です。

久蔵の「桜図」に呼応するかのようなダイナミックな構図と、紅葉に染まった葉とまだ青く残っている葉の対比が鮮やかな障壁画です。

 

松林図屏風(1593~1595)

等伯の代表作「松林図屏風」。

六曲一双の屏風に墨の濃淡だけで動きを付け、靄の中に浮かび上がるような松林は、近世水墨画の最高傑作です。

霞の中に浮かび上がる松は、水蒸気をたっぷり含み、その湿潤な空気までも感じられます。

正しい制作年ははっきりとしていませんが、等伯の息子久蔵が亡くなったあと、人からの依頼ではなく自分自身のために描いた作品とも言われています。

 

利休居士像(1595)

織田信長に召し抱えられ、その後は豊臣秀吉の茶の指南役として天下一の宗匠の名を確立し、茶聖とも称され茶の湯文化を広めた千利休。

利休は堺の商人の家に生まれ、30代40代と商売に打ち込み、三好氏の御用商人になり、商売の道でも成功を収めていました。

その審美眼により等伯を見出し、出世の道を用意します。

等伯が描いた利休の肖像画は、生前の利休を描いた唯一の肖像画と言われています。

 

枯木猿猴図(不明)

元々は京都にある妙心寺の龍泉菴所蔵で屏風に描かれていましたが、現在は掛軸に仕立て直されている「枯木猿猴図屏風」。

牧谿(もっけい)の影響が強く見られ、牧谿の猿の作品に倣って猿を描いたのではないかと言われています。

また相国寺には等伯の「竹林猿猴図屏風」も残っています。2015年には新たに「猿猴図屏風」が発見されました。

 

仏涅槃図(1599)

本法寺が所蔵する「仏涅槃図」は、泉涌寺の涅槃図(明誉古礀作)、猫が描かれていることで有名な東福寺の涅槃会(吉山明兆作)と合わせて、「日本三大涅槃図」と呼ばれています。

「仏涅槃図」の裏面には当時の貫首・日通の筆で、釈迦以降の日蓮宗の祖師や同寺の歴代の名が記されている他、等伯の祖父母や父母、7年前に急逝した息子の久蔵の名もあることから、奉納した年は久蔵の七回忌を弔う意味もあったと言われています。

 

烏鷺図(1605)

全長約3.5メートルにも及ぶ大きな画面、飛び交う黒いカラスと水辺に佇むシロサギが対照的な「烏鷺図」。

黒と白、動と生のコントラストが印象的かつ、雄大で生き生きとした等伯晩年の作品です。

重要文化財にも指定されている「烏鷺図」はDIC川村記念美術館のコレクションでした。

しかし同館の日本画展示の終了に伴い、現在は株式会社スタートトゥデイ元代表取締役社長・前澤友作氏のコレクションとなりました。

 

龍虎図屏風(1606)

等伯68歳の時に制作された「龍虎図屏風」は等伯最晩年の作品です。

左右両隻に虎と龍が向かい合い、睨みあっているような迫力ある構図になっています。

この作品は明治時代に来日したお雇い外国人で、東洋美術史家のアーネスト・フェノロサと、医師であり日本美術の研究家・収集家として知られるウィリアム・ビゲローが購入しアメリカに持ち帰りました。

現在はボストン美術館に収蔵されています。

 

長谷川等伯の作品を観ることができる寺院・美術館

本法寺(京都府)

京都にある日蓮宗の本山、本法寺は室町時代に久遠成院日親上人によって築かれました。

等伯は能登から上洛した際に、生家の菩提寺のつてで本法寺塔頭の教行院に住み込みで制作を行った時期があり、等伯とは縁の深いお寺です。

等伯が描いた当時の住職だった「日堯上人像」、日本三大涅槃図の一つ「仏涅槃図」は本法寺の所蔵です。

毎年3月14日~4月15日の期間のみ、「仏涅槃図」の真筆を拝観することができます。

 

智積院(京都府)

秀吉が夭折した愛息・鶴松のために建立した祥雲寺。

豊臣家滅亡後、家康が智積院に隣接していた祥雲寺を与え、祥雲寺は吸収合併されました。

智積院は真言宗智山派の総本山の寺院です。

智積院には長谷川一門の「桜図」「楓図」「松に秋草図」「松に黄蜀葵図」が収蔵されており、どれも国宝や重要文化財に指定されています。

収蔵庫では音声ガイダンスがあり、桃山文化の解説を聞くことができます。

 

東京国立博物館(東京都)

東京・上野にある東京国立博物館では、等伯の「牧馬図屏風」「伝名和長年像」「瀟湘八景図屏風」そして国宝「松林図屏風」を収蔵しています。

毎年お正月になると東京国立博物館は定番企画「博物館に初もうで」を開催しており、その年の干支にまつわる作品を展示していますが、国宝「松林図屛風」も毎年展示しています。

 

長谷川等伯のおすすめ関連書籍

「もっと知りたい長谷川等伯 生涯と作品」

東京美術出版の「もっと知りたい」シリーズ。

等伯の人生と作品を5期に分けて紹介しており、年代別に分かりやすくまとめられた一冊です。

日本絵画史を専門する出光美術館学芸部長の黒田泰三氏が解説を行っており、国宝「松林図屏風」に関しては30ページにわたって特集されています。

もっと知りたい長谷川等伯 生涯と作品

1,980円 (税込)

出版社 ‏ : ‎ 東京美術 (2010/2/20)

 

「長谷川等伯:真にそれぞれの様を写すべし」

2003年刊行の「長谷川等伯:真にそれぞれの様を写すべし」。

第6章に渡り等伯の人生と作品を解説しています。

信春時代からの作品を、先行研究を踏まえて詳細に分析・考察しており、等伯の人物像が公正かつ冷静に纏められています。

解説は宮島新一氏で、京都国立博物館、文化庁、奈良国立博物館、東京国立博物館、九州国立博物館などを経た日本美術史学者です。

長谷川等伯:真にそれぞれの様を写すべし

2,640円 (税込)

出版社 ‏ : ‎ ミネルヴァ書房 (2003/11/10)

 

まとめ

晩年まで挑戦を続け、日本画の新境地を切り開かんとした長谷川等伯。

この時代の絵師たちは戦国武将同様、御用絵師としての覇権争いがありました。

30歳を超えて能登から上洛し、たった一人で狩野永徳率いる狩野派に立ち向かい、一代で長谷川派を興した等伯。

彼の波乱万丈な人生から、その当時、芸術文化が政治に与えた影響力の強さが伺えます。

 

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