日本画日本画家画家
ART

日本画の有名画家15人とその代表作を解説

15人の巨匠とともに
日本画の歴史を振り返る

日本画は、墨や岩絵具・和紙・絹などを使う日本独自に発展した伝統的な絵画ジャンル。

日本画の画家たちは、古典絵画にとどまらず近現代にいたるまで、さまざまな工夫を凝らし西洋絵画のエッセンスも組み入れながら数多くの名画を残しました。

日本の現代アートを盛り上げる、村上隆も何を隠そう実は日本画の出身。

千住博や松井冬子など、現在も人気の日本画家は数多くいます。

今回は、そんな日本画にスポットライトを当て、日本美術を読み解く上で不可欠な巨匠15人とその代表作をご紹介します。

 

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竹内栖鳳
1864〜1942年

竹内栖鳳(たけうちせいほう)は京都の小料理屋に生まれた日本画家。

近代日本画の祖といわれ、伝統的な日本画のモチーフであった日本の風光明媚な四季の景色や風物だけにとらわれず、ライオンや象などの舶来の動物、犬猫などの身近な生き物も描きました。

竹内栖鳳の画力はそのリアリズムに象徴され、画面から獣のにおいや毛並みの柔らかさが感じられるような生々しくも繊細な作風が特徴です。

海外での評価も早くから得ており、1900年のパリ万博で「雪中燥雀」が評価されたことをきっかけにヨーロッパを巡り、コローやターナーなどの西洋絵画からも大きな影響を受けました。

竹内栖鳳の作品のポイントは、四条派という日本画の流派をベースにしながらも、狩野派や西洋絵画の写実的な要素も取り入れたこと。

戦前の京都画壇の名画家として、「東の横山大観、西の竹内栖鳳」と呼ばれる日本画の巨匠です。

 

「羅馬之図」1903年

異国・ローマの廃墟を日本画で表すという、当時としてはかなり斬新な発想で描かれた屏風絵です。

ヨーロッパ視察旅行から帰国した竹内栖鳳が、鮮やかな異国の夕刻の光景をセピア色で描きました。

6曲で1双(6つのパネルで1組)の屏風となり、1つのパネルがタテ約373センチ、ヨコ約145センチという大型作品です。
実はこの作品、明治時代に完成してから2000年代初頭まで約100年もの間、行方不明とされていたことでも知られます。

幻の傑作と評されていた同作は、突如としてとある旧家で発見され、再び日の目を見ることになりました。
西洋の写実の美、中国の水墨画のような背景、竹内栖鳳の学んできた全てが近代日本画として結実した作品です。

 

所蔵美術館

海の見える杜美術館

 

「班猫」1924年

竹内栖鳳の代表作の一つに挙げられる「班猫」は、人間にとって身近な動物である猫が主役の日本画です。
それまでの日本画の世界では、愛玩動物がフィーチャーされることはあまりありませんでした。

日常の風景に眼差しを向け作品に昇華したのは、小料理屋を営む家に生まれ、地元・京都で絵を習いながら成長した竹内栖鳳らしい側面です。

一説には、竹内栖鳳は八百屋の軒先でまだら模様の猫を見かけ、その動きや模様などのディテールに興味を持ったことからこの作品が生まれたとか。

猫を観察してしっかり描くために、竹内栖鳳は八百屋に頼み込んで猫を譲り受けるほど、日本画のリアリズムに情熱を注いでいたようです。
同作は、国の重要文化財にも指定されています。

 

所蔵美術館

 

下村観山
1873〜1930年

下村観山(しもむらかんざん)は、和歌山に生まれ、東京や茨城で活躍した明治〜昭和初期の日本画家です。
近代日本画の父と呼ばれた狩野派最後の画家・狩野芳崖などに師事し、伝統的な日本画から写実的な描写や空間表現などを取り入れた新しい日本画までを学びました。

1887年に創立された官立の東京美術学校(後の東京藝術大学)の第1期生として、横山大観らとともに在籍し、下村観山は卒業後すぐに助教授に抜擢され後進の指導にあたります。

同時に自身の創作活動も深めながら、美術評論家の岡倉天心らとともに1898年、美術団体・日本美術院を設立。
下村観山は文部省の命を受け、日本文化の発展に貢献するべくヨーロッパ留学も果たし、ラファエロなどの西洋絵画の模写や研究にも取り組みました。

作品のモチーフとしては風景や動物のほか、仏教や歴史上の人物、謡曲の場面なども取り上げ、画面からストーリーを感じさせる日本画に仕上げています。

 

「闍維」1898年

下村観山の初期の代表作といえば、この「闍維」が有名です。
釈迦が荼毘に付される(火葬される)場面を描いた作品で、今にも動き出しそうな人物描写と空間的な広がり、鮮やかな色彩と陰影が特徴です。

この作品は、下村観山自身も設立メンバーとなっている日本美術院が日本絵画教会と協力して開催した第1回目の展覧会で、横山大観の「屈原」とともに最高賞を受賞。

当時、政府に招聘され日本美術学校の設立にも尽力したアーネスト・フェノロサからも高い評価を受け、日本画の新しい地平を切り開くパワーを絶賛されました。

政治、文化、思想など、多角的に急速な転換期を迎えた明治時代において、日本画もまた大きな変化を遂げたことを物語る重要作品の一つといえるでしょう 

 

所蔵美術館

 

「弱法師」1915年

能の演目である「弱法師」の一場面を描いた、大正期の日本画。
もともと、徳川家に仕える能楽の家系出身の下村観山にとって、能の物語は身近な題材であったのかもしれません。

継母の嘘に騙された実父に家を追い出された俊徳丸は、悲しみのあまり盲目となり、ぼろをまとって乞食として諸国を巡り、弱法師と呼ばれていました。

父を想い、梅の花の咲く寺の庭で日想観(落日を拝みながら極楽浄土を思うこと)をする弱法師。
目の見えない弱法師は、袖に降りかかる梅の花びらや太陽の熱に、仏の存在を感じ取ったのでしょうか。

下村観山は、悟りの境地を主題にこの作品を描いたといわれ、重要文化財に指定されています。

 

所蔵美術館

東京国立博物館

 

川合玉堂
1873〜1957年

川合玉堂(かわいぎょくどう)は、日本の自然を愛し、日本画のモチーフとした愛知県生まれの画家です。

円山・四条派、狩野派などの画家に師事し、それぞれの流派を融合した作風で日本の山河や四季折々の風景を描きました。
川合玉堂の描く自然美は写実的かつ趣きに富み、その作品はフランス、イタリア、ドイツなどでも高く評価されています。

俳句や詩作にも親しみ、歌集も刊行するなど、文化的素養に優れた人物であったことも知られています。
東京美術学校の教授も務め、1940年には文化勲章を受賞。

第二次世界大戦中に疎開先として選んだ東京西部の青梅市の豊かな自然を気に入り、終の住処としました。
現在も、青梅市の玉堂美術館でその作品を見ることができます。

 

「行く春」1916年

6曲1双の屏風が対になった大型作品で、国の重要文化財に指定されています。
埼玉県・秩父の長瀞(ながとろ)を訪れた際の川下りの経験から着想した作品といわれ、作品の画面を横切るように雄大な川の流れが描かれています。

川合玉堂の日本画としてはとりわけ絢爛豪華な作品で、舞い散る満開の桜、岸辺の岩に映える春の光、ゆったりと流れる川の水面など、美しい春の眺めを生き生きと表現しています。

季節や時の移ろいを感じさせるような、風流でありながら郷愁をも呼び起こす圧倒的な画力。
日本人の原風景ともいうべき豊かな自然の美しさを、日本画にギュッと閉じ込めた作品です。

 

所蔵美術館

 

「彩雨」1940年

皇紀2600年奉祝という一大イベントに合わせて制作された作品で、川合玉堂の代表作の一つ。
秋雨にけむる紅葉の鮮やかさと、回る水車の軋む音、そこで生活を営む人々の息づかいが画面からあふれてくるような、自然と人間の共存を美しく描いた1枚です。

ただ写実的なだけでなく、自然への造詣と温かい眼差しなくしては描くことのできない、川合玉堂の日本画家としての特性が如実に表れています。

変化の激しい時代において、詩情豊かな風景画を書き続けた川合玉堂は、世の流れをどんな風に見つめていたのか、作品から読み解くのも楽しみ方の一つでしょう。

 

所蔵美術館

 

鏑木清方
1878〜1972年

鏑木清方(かぶらききよかた)は、東京出身の浮世絵師・日本画家。
浮世絵師で日本画家の水野年方に師事し、ジャーナリストで人情本(庶民の恋愛を描く大衆小説)の作家でもある父親のもと、鏑木清方は17歳の頃から挿し絵画家として活躍しました。

やがて美人画や風俗画の大作を描くようになった鏑木清方は、作家の泉鏡花などの挿絵も手がけながら、生涯にわたって人物画を描き続けました。

明治、大正、昭和という激動の時代を生きながら、江戸時代から続く東京の「」の文化を軸に、人々の生活や心の機微を映し出すような近代的な美人画作品を残した鏑木清方。

キャリアとしては1954年に文化勲章を受賞し、数多くの門下生を輩出しながら93歳で亡くなりました。
鏑木清方が晩年を過ごした神奈川県鎌倉市の旧居跡には、鏑木清方記念美術館が設立されています。

 

「墨田河舟遊」1914年

「墨田河舟遊」は、6曲1双の大画面の中に、舟遊びを楽しむ人々を描いた大作です。
江戸時代、大名一行はたくさんの華やかな女性たちを舟に乗せ、人形の舞に興じて宴会を開いています。

一方、舟の屋上では船頭たちが一所懸命に舟を操る仕事姿。
別の舟には火遊びに興じる若侍、また別の舟には漁をする人たちなど、奥行きのある絵画の中に江戸のさまざまな風俗を詰め込んでいます。

鏑木清方の作品は、ただの美人画や人物画ではなく、人の姿を通して社会や街、時代を映し出しています。

 

所蔵美術館

 

「築地明石町」1927年

美しい女性の姿を描いた日本画は、鏑木清方の真骨頂です。
中でもこの「築地明石町」は、気品と色香の両方を兼ね備えた絶妙なバランス感覚と美しさで鏑木清方の代表作の一つに数えられています。

黒い羽織、淡い緑色の着物、抜けるように白い肌、結い上げられた黒髪、目はぼんやりと遠くを見つめ、傍らには朝顔の花が。
絵のモデルは鏑木清方の夫人の友人といわれ、左手薬指の指輪や紋付の羽織が、庶民というより高貴な婦人であることを示しています。

かつて、たくさんの帆船も行き交っていた隅田川に近い築地明石町は異国情緒漂う街でした。貴婦人は船を眺めているのかもしれません。
1971年には日本郵便の切手の絵柄にも採用された名作です。

(個人蔵)

 

菱田春草
1874〜1911年

菱田春草(ひしだしゅんそう)は、横山大観、下村観山などと並ぶ明治時代の近代日本画の巨匠です。
腎臓病のため37歳の若さでこの世を去った菱田春草は、昭和の時代を生きることはありませんでしたが、日本画にさまざまな技法や表現を導入し革新を起こした人物のひとりです。

長野県に生まれ、横山大観らに1年遅れて東京美術学校に入学し、岡倉天心から強い影響を受けました。
インド、アメリカ、ヨーロッパを周遊し見聞を広め、日本の自然、動物、仏教などをモチーフにした作品を数多く遺し、穏やかな色彩と繊細な描写が特徴です。

横山大観らとともに、従来の日本画にあったはっきりとした輪郭線を廃するという方法を試みましたが、世間からは非難を浴び、「朦朧体」という言葉で揶揄されたことも。

後世の評価は高く、大観は菱田春草の方が絵の技術が上と認める発言もしています。

 

「黒き猫」1910年

重要文化財にも指定されている「黒き猫」は、美しい構図と、木の葉や幹、そして黒猫の毛並みなどのテクスチャーが鮮やかな日本画です。

展覧会への出品を目指し、菱田春草はもともとは別の大型の屏風絵を仕上げる予定でした。
しかしモデルの不調などにより納期までの屏風絵の制作を断念し、急遽5日間で仕上げたのがこの「黒き猫」だったといわれています。

短期間での制作とは思えない完成度と美術品としての美しさは、まさに一見の価値あり。
不思議なエピソードから生まれた同作が重要文化財になるとは、菱田春草自身も予想していなかったことでしょう。 

 

所蔵美術館

永青文庫

 

「王昭君」1902年

王昭君とは、楊貴妃などと並ぶ中国の四大美人のひとり。
菱田春草は、漢王室の後宮(ハーレム)にいた王昭君が、匈奴に婚姻のために送り出される出立のシーンを描きました。

その後、匈奴で夫と死別した王昭君は、土地の習慣に従って義理の息子の妻となり二女をもうけています。
しかしこれは王昭君の故郷・漢においては近親相姦にあたるタブーとみなされるため、王昭君は後に悲劇の女性として扱われるようになったのです。

そんな王昭君の人生を予感させるような哀惜の場面を、菱田春草は「朦朧体」と呼ばれた無線描法で描きました。

 

所蔵美術館

山形・善寶寺

 

横山大観
1868〜1958年

横山大観(よこやまたいかん)は、現在の茨城県水戸市出身の日本画家。

朦朧体」といわれる独特の技法を確立した人物で、近代日本画の巨匠として海外でも高い評価を誇ります。
日本美術学校の一期生として下村観山などとともに学び、後に日本美術院の創立にも関わりました。

しかし、日本国内で横山大観らによる日本画と西洋技法の融和に対する拒絶反応が強かったことから、海外へ目を向け、学業や英語にも優れていた大観はインドとアメリカで相次いで展覧会を開催。

これが良い評判を得たことからヨーロッパへ渡り、ロンドン、ベルリン、パリなどアートの中心地でも展覧会を開き、海外での高評価が逆輸入される形で日本でも徐々に認められるようになりました。

富士山や鮮やかな紅葉など、日本独自の光景を好んで描き、個人蔵の作品が多いことからも根強い人気が伺えます。

 

「屈原」1898年

中国戦国時代の政治家・詩人である屈原をモチーフにした日本画。
幅3メートルほどの大画面に、花を携え荒地をさまよい歩く屈原の姿を朦朧体で描いた同作は発表当時、感情をあらわにした人物描写が物議をかもしました。

従来の日本画では、情感をはっきり描き出すことが主流ではなく、新しい表現に取り組む横山大観はまさに近代日本画に革命を起こした存在だったのです。

風になびく腰紐や着物の裾、木々のざわめきなど、不穏な空気を感じさせる描写は、見るものに強い印象を残します。

 

所蔵美術館

厳島神社

 

「生々流転」1923年

全長約40メートル、日本一長い画巻にして重要文化財という、注目すべき作品。
万物は絶えず生まれ、変化し、移り変わっていくこと」を意味する生々流転というタイトルを冠した同作は、「水の一生」を高度な水墨画技法で描いています。

山あいに浮かぶ雲からひと雫の雨が生まれ、地面に落ちて流れ、川になり、人間やあらゆる生物の生活を潤し、やがて大河になり、海に合流し、龍が舞う荒れた海から再び雲になる、というもの。

豊かな水とともに生きてきた日本人にとって、水の一生は人の一生とともにあるものでもあります。

同じ自然の一部として、人の在り方にも問いを投げかける作品かもしれません。

 

所蔵美術館

 

伊東深水
1898〜1972年

伊東深水(いとうしんすい)は、大正から昭和にかけて活躍した東京出身の浮世絵師で、日本画家、版画家です。

浮世絵の正統派、歌川派を継ぐ人気絵師として多くの美人画を残したことで知られ、女優・朝丘雪路の父親でもあります。
第二次大戦後は美人画だけでなく日本画も多く手がけました。

伊東深水は1911年に14歳で鏑木清方に師事し、夜間学校での勉強と並行して日本画を学び、15歳で巽画会展入選という快挙を果たすなど、早くから絵画の才能を発揮します。

新聞の挿絵画家としても活躍したほか、伊東深水の美人画は非常に人気が高く、複製版画としても出回りました。

 

「吹雪」1947年

正統の浮世絵の伝統を継ぎ、なおかつ明るい近代的な美人画を完成させた伊東深水。
「吹雪」は雪の日に身をかがめ傘をすぼめるようにして歩く女性の、あでやかな着物姿を描いています。

なまめかしさより健康的な美しさや若々しさを感じさせる美人画で、実際の情景を切り取ったかのようなみずみずしさが特徴です。

伊東深水は「傘美人」と呼ばれる美人画シリーズを複数描いており、「吹雪」はその代表的な作品です。

 

所蔵美術館

駿府博物館

 

「三千歳」昭和中期

忍逢春雪解(しのびおうはるのゆきどけ)という歌舞伎作品に登場する遊女・三千歳。
病で療養中の三千歳のもとへ、彼女の思い人である片岡直次郎がやってくることになり、来訪を待つ三千歳が鏡の前で物思いに耽る様を、伊東深水は描きました。

片岡直次郎は罪人として追われる身で、江戸を去る直前に三千歳に別れを告げに来るのです。

三千歳のほつれ髪やあでやかな着物、相手を待ちわびる表情など、伊東深水は情感たっぷりに描いています。

 

所蔵美術館

 

上村松園
1875〜1949年

上村松園(うえむらしょうえん)は、京都生まれの女流日本画家。
女性として、初めて文化勲章を受賞した人でもあります。清澄で気品ある美人画を、女性の目線を通して描き続けました。

明治生まれの女性にとって画家を志すのは非常に難しいことでしたが、女手ひとつで子供を育てた母のサポートもあり、上村松園は日本画家として大成し、帝国芸術院の会員にもなりました。

清少納言や楊貴妃など古典や故事のほか、市井の女性、実の母などを題材に描き、プライベートでは自身は未婚の母として息子を育てました。

 

「序の舞」1936年

息子の嫁をモデルにした作品で、髪を文金高島田に結い、婚礼衣装で舞うという一風変わった設定。

舞を始めるときの、ピンと張り詰めた糸のような一瞬を切り取り、芸事の緊張感と内面の精神性を伝えています。
凛として気高い、自立した雰囲気の女性は、稀有な女流画家自身のイメージとも重なるところがあります。

上村松園の代表作としても名高い同作は、1965年に記念切手の図案にも採用されました。

 

所蔵美術館

 

「焔」1918年

上村松園の日本画には珍しい、妖艶な雰囲気のある作品です。
「焔」のモチーフとなったのは能楽作品「葵上」。

源氏物語の光源氏の正妻・葵の上を苦しめる、六条御息所の生き霊が題材です。
六条御息所は光源氏の元恋人ですが、強い嫉妬心から生き霊となって源氏の愛する女性たちに災いをもたらし、時には殺してしまいます。

絵の中の生き霊は、まさに鬼の形相でこちらを振り返り、孤独と怨みをたたえた表情を向けています。
振り乱した黒髪の一房をギリギリと噛みしめる様は、やはり人間の本質をとらえているといえるでしょう。

 

所蔵美術館

東京国立博物館

 

前田青邨
1885〜1977年

前田青邨(まえだせいそん)は、岐阜県出身の日本画家。
近代日本画家・平山郁夫の師匠としても知られています。

日本の伝統的な大和絵を学び、ヨーロッパ留学で西洋絵画、とくに中世イタリア絵画の影響を受け、武者絵などの歴史画から花や鳥といった自然物まで幅広い題材の作品を制作しました。

画壇から日本画界の発展を支え文化勲章を受賞したほか、法隆寺金堂の壁画の修復や高松塚古墳の壁画の模写など、歴史的・文化的事業にも多く携わった芸術家です。

晩年にはローマ法王庁の依頼を受け、バチカン美術館に収蔵する「細川ガラシア夫人像」を完成させています。

 

「真鶴沖」1949年

真っ青な海の色が印象的な、源平の合戦をモチーフに描かれた作品。
石橋山の戦いで敗れた源氏の兵士らが、海から小船で敗走するシーンを描いています。

従来の日本画とは一線を画する色使いを、平家物語という古典に用いる前田青邨のセンスは、やはり海外留学などで磨かれたものかもしれません。

精緻に描かれた甲冑などのディテールも必見です。
ご存知の通り、平氏と源氏の長きにわたる戦いは源氏の勝利と繁栄をもって終わりを告げます。

その終幕を予感させるようなビビッドな色使いの日本画です。

 

所蔵美術館

 

「腑分け」1970年

前田青邨の晩年の作は、キャリアの前半のビビッドな色合いと比較して白っぽい淡い色使いが特徴です。
「腑分け」は、蘭学(医療)が海外から日本へ持ち込まれた頃の「解剖」の一場面を描いています。

こうした歴史のワンシーンを描くのは前田青邨の得意とするところで、この絵を描くにあたっては文献の研究のみならず、現代の外科手術を見学するほどの熱心さだったとか。

「腑分け」に立ち会う人それぞれの表情や仕草も丁寧に描かれ、その1つひとつを楽しむことができる日本画です。

 

所蔵美術館

 

速水御舟
1894〜1935年

速水御舟(はやみぎょしゅう)は、明治時代の東京・浅草に生まれ、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。

40歳という若さで病気のため亡くなりましたが、残した名作は多く、重要文化財に指定されているものもあります。
作風は、徹底した細部の描写と写実を取り入れた近代日本画で、次第にインパクトのある装飾的なイメージを用いるようになりました。

畳の目1つひとつを精緻に描いた作品もあり、その写実性は賛否両論を呼びました。
東京を拠点に活動していた速水御舟の作品、特に初期作品の中には、残念ながら関東大震災などで焼失してしまったものもあります。

 

「炎舞」1925年

真っ赤な炎にカラフルな蛾が群れ飛ぶ、幻想的な世界観をリアリスティックに描いた日本画。
赤い炎が映える背景の黒く深い闇について速水御舟は、「もう一度描けと言われても二度と出せない色」と語っています。

想像上の絵にも関わらずどこか狂気や力強さを感じさせるのは、実際に写生したという蛾の描写の細かさによるものかもしれません。

他にない世界観と確かな表現技法が結実して生まれた「炎舞」は、国の重要文化財に指定されています。

 

所蔵美術館

 

「翠苔緑芝」1928年

4曲1双の対の屏風の金地に描かれた、植物と動物。
左は青いアジサイと白ウサギ、右はアオギリとビワの木と黒猫が装飾的に単純化された構図で、どこか謎めいて、見るものを引きつけます。

それぞれのモチーフをよく見ると西洋絵画の影響も感じられ、速水御舟の描写力と、日本画に新しいものを取り入れていく革新性に触れることができる大作です。

速水御舟は従来の日本画を一度解体し、独自の方法で新たな日本画を再構築した画家といえるかもしれません。

 

所蔵美術館

 

東山魁夷
1908〜1999年

東山魁夷(ひがしやまかいい)は、横浜生まれ、神戸育ちの、昭和を代表する日本画家です。
主に風景を題材に、単純化された画面構成を用いた独自の日本画表現を極めたことで知られます。

まるで絵本の1ページのようにシンプルな構図でありながら、風景に見る者の心が投影されるような精神性のある画風は、日本国内のみならず海外でも高く評価されています。

東山魁夷の日本画に登場する森や湖、白馬、残照といったモチーフは、どこか無国籍な印象を与えます。
ドイツ留学を経て、北欧やオーストリア、中国などにも取材で訪れた東山魁夷は、その目で見た世界の景色を独自に消化し、オリジナルな世界を絵画の中に構築したのかもしれません。

 

「緑響く」1982年

テレビコマーシャルにも登場し一躍有名になった「緑響く」は、東山魁夷が信州の自然の美しさをモチーフに制作した幻想的な日本画です。

柔らかく豊かな緑の森を背景に、湖に沿って歩く白馬。
湖面には森と白馬がそのまま反転して映り、水の美しさが際立ちます。

画面には描かれていない空は曇りなのか、全体的に霧がけむるようなくすんだ色合いながら、なおむせかえるような濃い緑が印象的です。
日本人が抱く自然観を切り取って絵画にしたようで、ファンタジックでありながら深く心に訴えかけてきます。

 

所蔵美術館

長野県信濃美術館

 

「道」1950年

野原の中の一本道を平明でシンプルな構図で描いた、東山魁夷の初期作品のひとつ。
青森県の種差海岸をスケッチした東山魁夷は、実際の景色の中にあった灯台や馬などをひとつずつスケッチから取り去り、最終的に心象風景としての道ひとつだけを作品にしたといわれています。

道はなだらかな丘の上で、突如として消えたかのように見えながら、よく見ると右折し丘の向こうへと続いています。
遠くの丘の上の空はほんのりと明るく、未来への希望を感じさせる絵となっています。

 

所蔵美術館

 

平山郁夫
1930〜2009年

平山郁夫(ひらやまいくお)は、広島県出身の日本画家です。
東京美術学校に進学したのち、前田青邨に師事して近代日本画を学びました。

中学生の頃、第二次世界対戦中の広島への原子爆弾の投下により被災し、一時は原爆後遺症による白血球の減少で死を覚悟したことから、命と向き合い、仏教を題材にした日本画も多く描いています。

平山郁夫は教育者としても知られ、ユネスコ親善大使に任命されたほか、中国の仏教遺跡の修復事業において日本画の岩絵具の重ね技法を指導するなど、技法の伝承や人材の育成でも活躍しました。

カンボジアのアンコールワット救済、バーミヤンの大仏保護事業など、独自に「文化財赤十字活動」という文化財保護活動にも力を入れ、社会的にも高い評価を受けています。

 

「仏教伝来」1959年

卒業後、東京藝術大学で助手を務めていた平山郁夫は、原爆後遺症の症状に悩まされるようになります。
その頃に描き上げ、画家として認められるきっかけになったのが、三蔵法師を題材にした「仏教伝来」です。

白馬と、その影のような黒馬が並び、陰陽のように対比されています。

この作品をきっかけに、平山郁夫は仏教にさらに深く関心を抱くようになり、ひいては仏教を伝えたシルクロードへの関心へとつながっていくことになりました。

 

所蔵美術館

佐久市近代美術館

 

「砂漠を行くキャラバン」2005年

4曲1双の対になった日本画で、月の出る砂漠、朝焼けの砂漠をひっそりと進むキャラバン(隊商)を描いています。
ラクダに乗った人々は無個性で、ただひたすらにシルクロードを進むということだけが強調されています。

古の時代、実際のシルクロードを辿った人々は何を思い、西から東へ、東から西へと進んだのでしょうか。
絵の中に広がる砂漠の光景に、寂寞たる思い、あるいは希望に満ちた思いを抱くかは見る者に委ねられています。

 

所蔵美術館

平山郁夫シルクロード美術館

 

片岡球子
1905〜2008年

片岡球子(かたおかたまこ)は、北海道出身の日本画家です。
昭和から平成にかけて活躍し、両親に勘当されても画家を志すことをやめなかったという強い信念の持ち主です。

100歳になっても現役の画家として描き続け、103歳で亡くなりました。
片岡球子の作風は、大胆で鮮やかな色使いと構図が特徴です。

一見して派手な彼女の作品は、日本画の概念を大きく塗り替えるものでした。
富士山や火山などのモチーフを好んで描き、いずれも力強い表現に賛否両論が起こりました。

 

「面構」1966年

「これが日本画?」と確かめたくなるような、色鮮やかで迫力のある人物画。
この「面構(つらがまえ)」という作品は足利尊氏、足利義満、足利義政をかわきりに、片岡球子がライフワークとしてさまざまな人物を描いたシリーズ絵画です。

歴史的な人物の人柄をとらえ、大迫力の画面構成で見る人にインパクトとともに伝えるような、片岡球子の代表作です。

 

所蔵美術館

 

「幻想」1961年

仮面と衣装をつけて踊る、カラフルな人物を描いた作品。
コラージュのように見える表現は、片岡球子ならではといえるでしょう。

この作品は、片岡球子が宮内庁で見た舞楽に着想を得て作られたといわれています。
制作時、56歳という円熟期を迎えた彼女の、衰えることを知らない情熱がほとばしり出るような作品です。

 

所蔵美術館

 

千住博
1958年〜

千住博(せんじゅひろし)は、東京出身の現代の日本画家です。
日本画を普及するため、創作活動だけでなく著述や講演などにも力を入れていることで知られます。

日本文化を作り伝えるためには自然の近くに身を置くことが不可欠との考えを実践する、思索する画家でもあります。
千住博は工学博士とエッセイストの両親の間に生まれ、音楽やデザインにも親しみながら日本画を志しました。

大学卒業後は日本画家の稗田一歩に師事し、風景をメインの題材として独自の世界を切り開いていきます。
日本の自然に限らず、世界の景色を日本画に落とし込んだ作品が有名で、世界的に評価されています。

 

「ウォーターフォール」1996年

「ウォーターフォール」は、白い背景に黒い墨を用いて、勢い良く水の流れ落ちる滝を生き生きと描いた作品です。
水流を描いた同作を見ていると、まるで激しい水音が遠くから聞こえてくるような錯覚に陥ります。

この作品は日本人の自然や超自然的な存在への畏怖心や、人間そのものに共通する原風景としての自然を日本画で表し、日本画表現の豊かさを知らしめる作品となりました。

 

所蔵美術館

 

「ザ・フォール」1995年

千住博の代表作といわれ、1995年のベネツィア・ビエンナーレではこの「ザ・フォール」で、東洋人として初めての名誉賞を受賞しました。
滝をイメージした作品で、タテ3.4メートル、ヨコ14メートルの大作。

作品にまつわる逸話としては、会場設営にあたっていた作業員の不注意で作品に溶けた熱いコールタールが付着してしまい、思わずそれを素手で払った千住博は大火傷を負ったといわれています。
授賞式には、千住博が手に包帯を巻いて出席したことも有名です。

 

松井冬子
1974年〜

松井冬子(まついふゆこ)は、静岡県出身の新進気鋭の現代日本画家。
古典的な絹本着色という、絹地に岩絵具で細密な線を描いていく画法で、耽美的かつ狂気を感じさせる幻想の世界を描いています。

どこか禍々しく、おどろおどろしくさえある松井冬子の世界観は、幽霊や臓器、九相図、妖しさのただよう女性などのモチーフと、現実と幻想の世界をあいまいにする朧げな色使いに象徴されます。
画家としての能力は、数回の挑戦を経て入学した東京藝術大学の卒業制作「世界中の子と友達になれる」で花開き、世間の注目を集めることになりました。

和装姿でメディアに登場することも多い松井冬子は現在、日本画家としての制作の傍ら、建築家SANAAの妹島和世とともに着物をプロデュースするなど、活躍の場を広げています。

 

「世界中の子と友達になれる」2002年

松井冬子の名を世に知らしめる第一歩となったのが、「世界中の子と友達になれる」という作品です。
藤棚の枝に垂れ下がるおびただしい数のスズメバチ、打ち捨てられたような空のゆりかご、スズメバチの間を縫うように中腰で歩みを進める少女の手足は血まみれ。

不穏な予感に満ちたモチーフの連続で、奇妙な明るさのある画面からは調和の取れた狂気が感じられます。
完成後1年間は、なかなか次作に取り掛かることができなかったと作者本人が語る残るほど、熱のこもった力作です。

 

所蔵美術館

 

「浄相の持続」2004年

花が咲き果実が実る野に横たわり、切り裂かれた腹からは胎児を宿した子宮や心臓を覗かせ、画面のこちら側に向かってうっすらと微笑みかける女性。

松井冬子の「浄相の持続」は、これまでの日本画では存在し得なかったようなグロテスクな世界を、日本画として美しさを感じさせる作品にまとめ上げています。

デジタルアートの進化も著しい現代において、あえて手間のかかる日本画という表現方法を選んだ松井冬子の、一筆ずつに魂が込められたような同作は見応え満点です。

 

所蔵美術館

平野美術館

 

 

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