建築辰野金吾
CULTURE

辰野金吾とは?建築家の生涯と代表作品について詳しく解説

 

明治から大正にかけて、日本の近代建築の礎を築いた建築家、辰野金吾(1854-1919)。

辰野金吾の名前を聞いたことがなくても、誰もが一度は彼の建築作品を目にしたことがあるのではないでしょうか?

彼の代表作である中央停車場(現・東京駅丸の内駅舎)は2012年に保存復原され、創建当時の美しい姿を再び現し大きな話題となりました。

今回は「日本近代建築の父」辰野金吾の生涯と、その代表的な建築物を紹介します。

 

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辰野金吾とは?

辰野金吾(たつのきんご、1854-1919)は佐川県出身の建築家です。

彼は中央停車場(東京駅丸の内駅舎)、日本銀行本店など、日本の主要な近代建築の設計を手がけたことから「日本近代建築の父」と呼ばれています。

 

1873年、辰野は工部大学校(現・東京大学工学部)に入学。

当時、お雇い外国人(幕末~明治初期に西洋の先進文化を移入するため政府や民間が雇用した指導役)として来日し、鹿鳴館や三菱一号館の設計を担当したイギリス人建築家 ジョサイア・コンドル(1852-1920)の下で西洋の近代建築を学びました。

卒業後はイギリスに3年間留学し、本場でヨーロッパの建築技術を学びます。

 

辰野は日本に帰国後、コンドルの後任として工部大学校の教授に就任しました。

1886年には帝国大学工科学大学学長に就任。造家学会(現・日本建築学会)の創設メンバーの一人として会長を歴任し、日本の建築学を体系化していきました。

 

日本の顔となる建築物を設計することが彼の目標でしたが、お雇い外国人の存在もあり、大きなプロジェクトに関わる機会に恵まれない時期が続きました。

そんな中、当時の第一国立銀行(現・みずほ銀行)頭取・渋沢栄一の抜擢により日本銀行本店の設計依頼が舞い込みます。

1896年に完成した日本銀行本店は、日本を代表する名建築となりました。

 

晩年の辰野は帝国大学の教授を辞し、建築家として設計に携わる日々を送ります。

辰野はヨーロッパの様式を取り入れながら、白い石造りと赤煉瓦で構成された「辰野式建築」を確立し、日本全国に近代建築を誕生させました。

 

彼の建築は関東大震災にも耐えた耐震性を持つその頑丈な作りから「辰野堅固」と称されています。

辰野がその生涯に手がけた建築は200を超えると言われ、現在でも日本各地に辰野の設計した建物が残っています。

 

辰野金吾の生涯

工部大学校(現・東京大学工学部)に入学

辰野金吾は1854年、肥前国(現在の佐賀県)の唐津藩下級武士・姫松倉右衛門の次男として生まれました。

 

明治維新後、政府によって急速な近代化政策が進められるなか、唐津では藩士の子弟への英語教育や洋式教練を目的とした洋学校「耐恒寮」 が1871年に開設され、辰野はその第一期生として入学しました。

 

耐恒寮には、のちに大蔵大臣、内閣総理大臣を務めた高橋是清(1854-1936)が渡米経験を買われ英語教官として赴任しました。

1871年に発布された「廃藩置県の詔」により、唐津藩は伊万里(現在の佐賀)県に統合され、そのため耐恒寮も開校から約1年足らずで閉校となってしまいます。

 

帰京した高橋是清は、その後も辰野を含む教え子たちに対し、積極的に上京の手助けをしました。

 

高橋是清の援助のもと上京した辰野は、1873年に工学省が開設した「工学寮」(のちの工部大学校、現在の東京大学工学部)を受験。補欠の成績で合格し、第一回生として入学しました。

日本初の工業大学として設立された工学寮では、授業料が無料かつ生活費も支給され、イギリスから招かれた教師から最新の技術を学ぶことができました。

 

辰野は造船学を2年学んだのち、造家(建築)に専攻を変更しています。

1877年に工学寮は工部大学校と改称され、辰野はイギリスから赴任した建築家 ジョサイア・コンドルの下で西洋の近代建築を学びました。 

 

工部大学校を首席で卒業、イギリスへ留学

1879年、辰野は工部大学校を首席の成績で卒業しました。

優秀な成績を修めた辰野には、コンドルの母校であるロンドン大学建築学科で西洋建築を学ぶチャンスが与えられ、彼は官費で3年間イギリスへ留学します。

 

辰野は渡英後、ロンドン大学のロイヤルアカデミーオブアーツに入学。

建築と美術を学ぶ傍ら、キューピッド建築会社に5ヶ月、ついでコンドルの前職場である建築家 ウイリアム・バージェス(1827-1881)の建築事務所で研修生として建築の実務を学びました。 

 

帰国後、工部大学校の教授に就任

辰野はその後もフランス、イタリア各地を巡りヨーロッパの建築物を見学した後、1883年に日本へ帰国。1885年にコンドルの後任として工部大学校の教授に就任しました。

 

当時は重要な官庁建築の設計の多くがお雇い外国人の建築家に依頼されていたため、辰野のもとには大規模な建築の仕事が来ず、大学で教鞭を振るう一日々を過ごします。

 

そんな中、第一国立銀行(現・みずほ銀行)頭取・渋沢栄一(1840-1931)が辰野を抜擢。

辰野は1885年に処女作となる銀行集会所(現存せず)の設計を手がけています。

 

造家学会(現・日本建築学会)を設立

辰野は1886年に開設された帝国大学工科大学 造家学科(現・東京大学工学部建築科)の教授に就任します。

彼はそれまで「造家学」と呼ばれていた分野に「日本建築学」「材料構造」「地震学」という新しい科目を作り、独自の建築教育を開始しました。

 

イギリス留学で得た経験と知見を基礎として、日本特有の気候や地理的条件を考慮した枠組みにより、辰野は日本で初めての「建築学」を体系化していきました。

 

1886年には「造家学会」(現・日本建築学会)の創立メンバーとして尽力し、副会長に就任しています(1898年に会長に就任)。

同年に辰野金吾建築事務所を設立し、建築設計にも積極的に携わりました。

 

日本銀行本店の設計を手がける

1887年、辰野は国家プロジェクトである「日本銀行本店」の設計に取りかかりました。

当時彼は、近代化の進む東京で代表的な建築物を3つ設計することを望んでいたと言います。

そのうちの1つが、日本経済の中心である日本銀行本店でした。

 

辰野が日本銀行の設計者として選ばれた背景には、耐恒寮の恩師である高橋是清と、彼の才能を高く評価していた渋沢栄一の協力があったと言われています。

 

辰野は、日本銀行本店の設計にあたり2度目の海外に旅立ち、アメリカ、イギリス、そしてヨーロッパ各地を約2年間かけて視察しました。

海外で最新の建築技術を学んだ辰野の設計により、日本銀行本店は1890年に着工、1896年に竣工しました。  

日本銀行本店は現在、日本の近代建築を代表する建物として国の重要文化財に指定されています。 

 

帝国大学工科学大学学長に就任

1898年、辰野は帝国大学工科大学学長に就任しますが、50歳目前の1902年に退任しています。

 

1903年には、建築家の葛西萬司(1863-1942)と共同経営で辰野葛西事務所を開設し、大学教授という肩書きでは実現できなかった建築家としての活動を本格的に開始しました。

 

同年には辰野の目標に掲げていた「東京で代表的な建築物3つ」のうちの2つ目となる、中央停車場(現・東京駅 丸の内駅舎)の設計依頼を受けます。 

 

その時すでに、ドイツ人鉄道技術者フランツ・バルツァー(1857-1927)が首都圏の鉄道網計画を立案し、中央停車場の設計図を描いていましたが、バルツァーの和洋折衷の駅舎案は受入れられず、 改めて設計が行なわれることとなり、辰野に白羽の矢が立ったのでした。

 

中央停車場は1908年に建設工事が着工し、1914年12月に竣工。

完成後に「東京駅」と改称されました。

赤煉瓦に白い花崗岩を使った「辰野式」洋式の重厚な建築の駅舎は、辰野の最も有名な作品として知られています。

 

1905年には、建築家 片岡安(1876-1946)とともに大阪に辰野片岡建築事務所を開設しています。

 

早稲田大学建築学科顧問に就任

辰野は東京駅の完成後も建築家として数々のプロジェクトに関わり、日銀の各支店をはじめ日本全国で建築設計に携わります。

辰野はその生涯に200を超える作品を設計したと言われており、辰野の監修のもと、若手の建築家が設計した作品も数多く残されています。

 

1912年には、内閣総理大臣となった大隈重信(1838-1922)の要請を受け、早稲田大学建築学科の創設に尽力し、顧問に就任しています。

 

晩年

1917年には、辰野が目標に掲げていた「東京の代表的な建築物3つ」の3つ目となる国会議事堂の建設計画が浮上します。

しかし彼は若手の建築家にチャンスを与えたいという思いから、自身が設計するのではなく、建築設計競技(コンペ)を提案しました。 

 

辰野はコンペの選考審査員を務めますが、第1次選考が終わったあと、当時大流行していたスペイン風邪に罹患し、1919年に65歳でこの世を去りました。

 

辰野金吾の作品の特徴

赤レンガと白い花崗岩を用いた辰野式建築

辰野の建築の特徴は、辰野式と呼ばれる赤煉瓦に白い花崗岩を配した建築です。

辰野が生み出した日本独自の近代建築は「辰野式ルネサンス」と呼ばれています。

 

「赤煉瓦駅舎」の愛称で親しまれている東京駅の丸の内駅舎は辰野の代表作です。

もう1つの代表作、日本銀行本店も内側は煉瓦造りになっており、外壁には花崗岩を用い重厚感のある印象に仕上がっています。

 

塔や小屋を設置した屋根デザイン 

辰野金吾のもう一つの特徴は、屋根に塔やドームを載せた賑やかなデザインです。

東京駅には全長335メートルの駅舎の南北にそれぞれドーム状の屋根があり、日本銀行本店も中央部分にドームがあります。

 

 

辰野金吾の代表作品12選

辰野が手がけた建築物は25棟現存しており、その多くが重要文化財に指定されています。

 

日本銀行本店(1896)

辰野の手がけた代表建築の1つが「日本銀行本店」です。

当時、官庁の建築設計の多くがお雇い外国人の建築家に依頼されていた中、辰野が初めて参加した国家プロジェクトでした。

辰野は設計にあたり、アメリカ、イギリス、そしてヨーロッパ各地を視察。ベルギー国立銀行を参考に設計したと言われています。

 

建物全体はネオ・バロック様式が主体ですが、壁面にルネサンス様式の意匠を取り入れた石積みレンガ造りと、中央部分のドームや一本柱などの特徴をもつ古典様式の建物は、以後、日本の近代建築を象徴するものとなりました。

 

この建物のもう一つの特徴は、その耐震性にあります。

1891年に濃尾地方で発生した濃尾地震での教訓をもとに、当時の日本銀行副総裁・高橋是清の指示により、建物上部の軽量化と耐震性を強化が決定。着工は既に始まっていましたが、2階・3階を煉瓦造石貼りに変更しました。

 

さらに、地面を地下6メートルまで掘り下げ、厚さ3メートルの基礎を造るなどの耐震性が施され、1923年に起きた関東大震災では倒壊を免れています。

この頑丈な設計こそ、辰野の建築作品が「辰野堅固」という愛称で呼ばれるようになった所以です。

 

また建物内にはエレベーター、水洗便所、日本初の鋼製の防火シャッター、空調設備など、当時最新の設備を導入しています。

 

辰野が設計から施工管理に携わった日本銀行本店は、1890年に着工し、1896年に竣工しました。

この期間中、辰野が設計し完成した建物は他に一つもなく、まさに日本銀行建設に捧げた5年間であったといえます。

1974年に国の重要文化財に指定されています。

 

浜寺公園駅(1907)

浜寺公園駅」は、南海電気鉄道南海本線の駅です。

辰野片岡建築事務所の設計により1907年に建てられた旧駅舎は、1998年に国の登録有形文化財に登録されています。

木造、平屋建てのハーフティンバー様式*の美しい駅舎です。

ハーフティンバー様式 とは

木造住宅建築の一様式で柱・梁・斜材をそのまま外部に現し、その間の壁体を石材・土壁あるいはレンガで充填したもので、イギリスで1450年~1650年頃に盛んに取り入れられていた方式

 

2016年に使用終了した駅舎は、約30m離れた場所に移設され、現在はカフェとして使われています。

 

日本生命九州支店(現・福岡市赤煉瓦文化館 1909)

「福岡市赤煉瓦文化館」は福岡市にある建築物で、辰野片岡建築事務所により、1909年に「日本生命保険株式会社九州支店」として建てられました。

外観は赤レンガの外壁と張り巡らされた白い花崗岩の帯、中央にドームを戴いた八角の塔屋屋根など、辰野が留学した19世紀末の英国で流行したクイーンアン様式の影響が随所に見られます。

 

建物内部の照明器具、階段の装飾、鉄柵などにはアールヌーボーの影響が見られます。

1966年まで利用されていましたが、1969年に国の重要文化財に指定され、福岡市に譲渡されました。

現在は「福岡市赤煉瓦文化館」として文化活動に利用されています。

 

奈良ホテル(1909)

「奈良ホテル」は、奈良公園に建築された1909年開業の明治期を代表する本格的洋風ホテルです。

本館は、辰野片岡建築事務所の設計に余地建てられた、木造2階建て瓦葺き建築。

寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾(しび、瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種)を置き、壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て瓦葺き建築の和風建築ですが、内装は桃山風の豪奢·華麗な意匠とドイツ風の重厚な洋風の作りで、和洋折衷様式となっています。

創業以来、近畿地方では国賓・皇族が利用するホテルとして知られ、「関西の迎賓館」と呼ばれています。

 

唐津銀行(1912)

旧唐津銀行本店」は、現在の佐賀銀行の前身の1つであった唐津銀行の本店として使用された佐賀県唐津市にある建物です。

 

同行の頭取を務めていた大島小太郎(1859-1947)が、唐津出身の同級生であった辰野に設計を依頼しました。

しかし、辰野は東京駅の建設プロジェクトの真っ最中だったため、辰野の監修のもと、その弟子で清水満之助店(現在の清水建設)に入店していた田中実(1885-1949)が設計を担当しました。

 

外壁には赤レンガ調タイルと白御影石が用いられ、他にもアーチ窓や御影石バルコニーなど「辰野様式」の外観の特徴を受け継いでいます。

1997年まで佐賀銀行の建物として使用され、唐津市へ寄贈されました。

 

現在は「辰野金吾記念館」という別称で、旧唐津銀行および唐津市の歴史や文化を紹介する施設として、辰野金吾と、彼に関連する資料常設展示が行われているほか、コンサートや展示会等のイベントが不定期で実施されています。

2002年に唐津市指定重要文化財に、また2017年には佐賀県指定重要文化財の指定となっています。

 

日本銀行小樽支店(1912)

大正・昭和初期までの北海道・小樽市は、「北のウォール街」と呼ばれるほど銀行街として栄えた街で、当時建てられた重厚な西洋建築が今の多く残っています。

中でも一際存在感を放つ建物が、辰野が弟子の長野宇平治(1867-1937)、岡田信一郎(1883-1932)とともに設計した「日本銀行旧小樽支店」で、小樽市指定文化財に指定されています。

 

1912年に竣工したこの建物はレンガ造りの2階建て、外壁はモルタルを塗った石造り風、屋根に5つのドームがあるルネサンス様式です。

屋根には八幡製鉄所製の鉄骨が使用されており、小樽市内を眺めることのできる東側の塔にはイギリス製の螺旋階段が取り付けられました。

 

岐阜県の赤坂産大理石を使ったロビーと営業場カウンター。煉瓦製の壁から鉄骨を組むことで、柱無しで広い吹き抜けの空間を実現した営業場。またアイヌの守り神であるシマフクロウをモチーフにデザインされた塑像が内外に30体施されているなど、内装も大変手の込んだ造りとなっています。

現在は日本銀行の広報施設・金融資料館として運営されています。

 

旧松本邸(現・西日本工業倶楽部会館 1912)

旧松本家邸」は1912年に北九州市に建てられた和館を併設した洋風近代建築です。

 

この建物は筑豊の石炭業で財を成した実業家であり、明治専門学校(現・九州工業大学)の創設者の1人である松本健次郎(1870-1963)が、自らの住宅と迎賓館を兼ねて依頼した建物で、国の重要文化財に指定されています。

 

洋館は辰野による設計で、外観、室内意匠、家具とも有機的なモチーフや曲線が組み合わされたアールヌーボー様式でデザインされています。

日本におけるアールヌーヴォー導入の初期の例で、また最も本格的なものとして知られています。

現在は、現所有者である西日本工業倶楽部の倶楽部会館として、結婚式や会食等で使われています。

 

南天苑(1913)

南天苑」は1949年、大阪府河内長野市の山あいにある「天見温泉」に開業した旅館です。

本館は室戸台風で倒壊した大阪府堺市の「大浜潮湯」の別館である家族湯を、阪堺電気軌道(当時は南海電鉄)から譲り受けて移築したものです。

 

本館の建物は数寄屋風・入母屋造木造の2階建の大規模なもので、客室には茶室建築を思わせる侘び・寂びの意匠が施されており、和風建築を基本としながら洋風モダンな意匠を取り入れた当時の貴重な建築様式を残しています。

 

2002年に、この建物が辰野片岡建築事務所の設計によるものだったことが明治建築研究会の調査によって裏付けられ、2003年に国の登録有形文化財に登録されました。

 

武雄温泉新館および楼門(1914)

「武雄温泉」は、佐賀県を代表する1300年の歴史ある温泉地です。

そのシンボルともなっている建築物が、辰野葛西事務所が設計を手がけた「武雄温泉新館」と「楼門」です。新館は1914年、楼門は1915年に完成しました。

辰野が携わった数少ない和風建築で、鮮やかな朱色で塗られた赤いラインと白色の壁が特徴的な建物です。

 

武雄温泉新館は,正面中央に玄関車寄を備えた木造二階建の主体部、両翼に平屋部分が張り出した構造で、背面に八角形の大浴場や幻の浴室と呼ばれる大正天皇のために作られた浴室があります。

浴室には「マジョリカタイル」と呼ばれる色鮮やかな高級タイルが使われています。

 

建築以来、公衆浴場として使われていましたが、老朽化などを理由に1973年に休館しました。

1986年には県の重要文化財に指定され、2005年には国の重要文化財に指定。現在は武雄温泉の資料館となっています。

 

「楼門」は、武雄温泉の入り口にある門です。

両側面翼屋付で、本瓦葺のいわゆる竜宮門とよばれる形式の門に、桟瓦葺の翼屋が張り出しており、釘が1本も使われていないという独創的な建物です。

2005年に新館とともに、国の重要文化財に指定されています。

 

中央停車場(東京駅丸の内駅舎 1914) 

辰野の代名詞的な建築作品、中央停車場(東京駅丸の内駅舎)。

当時、すでにドイツ人鉄道技術者 フランツ・バルツァーが依頼を受け、設計に着手していましたが、バルツァーの提案した、レンガ作りでありながら、母屋破風や唐破風を取り入れた屋根を載せるという和洋折衷の設計プランは受入れられず、再度選定が行なわれた結果、辰野率いる辰野葛西建築事務所が設計を担当しました。

1908年に着工。8年後の1914年12月に竣工し、完成後に「中央停車場」から「東京駅」に改称されました。

 

赤煉瓦に白い花崗岩を使った「辰野式」洋式の重厚な建築の駅舎は、オランダのアムステルダム中央駅を参考に設計されたと言われています。

 

竣工時は全長334メートルで、中央棟にはピラミッド状の屋根を。南と北にはドームを擁し、赤煉瓦の色鮮やかな壁面には白い花崗岩のラインが走る3階建ての建物で、当時の日本では全く前例のない「さながら宮殿の如し」と言われるほど華麗な建物でした。

 

鉄骨レンガ作りの駅舎は堅牢な造りで、1923年の関東大震災ではほぼ無傷でしたが、1945年の東京大空襲による大火災で、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われてしまいました。

2003年に国の重要文化財に指定され、「赤煉瓦の駅舎」という愛称でも親しまれています。

2012年には大規模な保存復原工事を終え、創建当時の姿を再び現しました。

 

大阪市中央公会堂(1918)

通称「中之島公会堂」と呼ばれる「大阪中央公会堂」は、株で莫大な私財を得た大阪株式取引所の仲買人、岩本栄之助(1877-1916)の寄付により建設が始まった公共施設です。

 

この建物の設計には、当時珍しい「建築設計競技」と呼ばれる、設計を公募して競わせるコンペ方式が採用されました。

後進の育成にも力を入れてきた辰野らしい方法です。

 

辰野は建築顧問という立場で、その審査員をつとめ、一等に選ばれた岡田信一郎の設計プランに基づいて、辰野片岡事務所が実施設計を担当しました。

 

1913年に着工し、1918年に竣工。

辰野らしい外観の赤レンガと白いラインで、正面出入り口の上部に大きなアーチやをあしらい、屋根に塔や小屋が多数のったネオ・ルネサンス様式でありながらバロック的な壮大さを持つ外観です。

2002年には国の重要文化財に指定されました。

現在も貸館施設として結婚式場や会食場として利用されており、大阪市のシンボル的な存在となっています。

 

「辰野金吾」のおすすめ関連書籍

辰野金吾

明治・大正期の建築家、辰野金吾の評伝。

建築界の礎を築き、東京駅や日本銀行本店など日本を代表する建築作品を設計したことで知られる辰野金吾。

ヨーロッパで学んだ「美術建築」という考え方をどう日本に根付かせようとしたのか、新たな資料を元にその足跡を丹念に辿りなおし、従来とは異なる辰野像を提示する一冊です。

辰野金吾 (ミネルヴァ日本評伝選)

2,750円 (税込)

 

東京駅をつくった男·日本の近代建築を切り開いた辰野金吾

明治・大正時代にかけて、日本中に東京駅を始め、日本銀行や地方の銀行、私鉄の駅舎やホテルなど全国にたくさんの建物を設計しただけでなく、大学で若手を育て、日本の近代建築を開いた辰野金吾。

まだ「建築」という言葉もなかった時代、それを学び、努力を重ねて日本の近代建築の始まりを支えた一人、辰野金吾の児童用にわかり易く書かれた伝記です。

東京駅をつくった男: 日本の近代建築を切り開いた辰野金吾

1,540円 (税込)

 

 

ヨーロッパで建築を学んだ後、日本の地形や風土に根ざした建築学を体系化した辰野金吾は、先陣を切って「建築家」という職業を日本で確立し、後世へと繋ぎました。

辰野は海外の模倣ではなく、日本独自の近代建築を築いた、まさに「日本の近代建築の父」です。

赤レンガと白いラインで造られた重厚で美しい辰野建築は、100年以上経った今でも全国に現存し、見る人々を魅了しています。

辰野建築のある街を訪れた際にはぜひ注目してみてください。

 

 

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