猪熊弦一郎絵画
ART

猪熊弦一郎とは?上野駅壁画や三越包装紙で有名な画家の生涯と代表作品について解説

上野駅中央改札の壁画や三越の包装紙をデザインしたことでも有名な猪熊弦一郎。

誰もが一度は彼の作品を目にしたことがあるのではないでしょうか。

彼の出身地、香川県丸亀市には猪熊弦一郎現代美術館があり、「いのくまさん」の愛称で親しまれています。

フランスではマティスに師事し、アメリカではマーク・ロスコ、イサム・ノグチを始めとする有名アーティスト達とも交友がありました。

猫と妻、愛するものを自由に描いた画家、猪熊弦一郎の生涯を詳しく解説します。

 

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猪熊弦一郎とは?

昭和を通して活躍した洋画家

1902年に香川県高松市に生まれ、丸亀市で幼少期を過ごした猪熊弦一郎。

幼いころから絵が上手で、美術の時間には先生の代わりに絵を教えていたこともあったと言われています。

渡米渡航をきっかけに具象から抽象絵画を描くようになり、画家人生を通して常に新しいものにチャレンジした意欲的な画家でした。

「絵を描くには勇気がいる」と口にし、生涯現役で制作を続けていました。

 

「新制作派協会」の設立に携わる

猪熊弦一郎は1934年まで帝展(帝国美術院)で活躍する画家の1人でした。

しかし戦時体制のさなか、文部省が美術団体を改組しようとしたことに対し彼は異を唱えます。

こうして猪熊弦一郎、伊勢正義、脇田和、中西利雄、内田巌、小磯良平、佐藤敬、三田康、鈴木誠の9人が集まり、1936年に「新制作派協会」(現 新制作協会)を設立しました。

その後、彫刻部、建築部が組織され、昭和戦前期には反官展の実力派を擁する洋画団体として注目を集め、昭和期における有力な美術団体の一つとなりました。

 

ニューヨークで20年制作活動を行う

猪熊は1955年に渡米し、戦後の20年間ニューヨークで制作活動を行いました。

ニューヨーク滞在からわずか半年で初個展を開催するなど精力的に活動を行い、当時ニューヨークで活躍していたマーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどの有名アーティストとも交流を深めていきました。

 

猪熊弦一郎の生涯

東京美術学校洋画科に入学

猪熊は旧制丸亀中学校卒業後上京し、岡田三郎助が主宰する本郷洋画研究所へ通いました。

1年の浪人生活後を経て1922年に東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学し、牛島憲之、荻須高徳、岡田謙三、山口長男、小磯良平らと同級生になります。

1986年から東京美術学校西洋画科助教授に就任し、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた洋画家の藤島武二に師事していました。

 

24歳で帝展初入選

猪熊は1926年24歳の時に、妻の文子を描いた「婦人像」で第七回帝展に初入選します。

第10回、第14回では特選に入るなど、1934年まで主に帝展を舞台に活躍しました。

その後、「座像」で特選を獲ったことにより、帝展に審査・鑑査なしでの出品が認められ、無鑑査扱いとなります。

 

1936年「新制作派協会」を設立

戦時体制の最中、文部省当局が美術団体を改組し始めたことをきっかけに美術界は混乱していました。

文部省に対し、「反アカデミック芸術精神に於て官展に関与せず、我々は独自の芸術的行動の自覚に於て我々の背馳すると認めたる一切の美術展に関与せず」と異を唱えた猪熊は、小磯良平らを含む9人の青年画家と立ち上がり、1936年に「新制作派協会」を発足します。

 

36歳で渡仏、マティスに師事

「アーティストたるもの、フランスで勉強するべきだ」という風潮があった当時、猪熊も妻を伴ってフランスに渡ります。

彼は真っ先に南仏・ニースに赴き、渡航前から直筆の手紙を送っていたアンリ・マティスに会いに行きました。

しかし猪熊の絵を見たマティスに「おまえの絵はうますぎる」と言われてしまいます。

マティスの言葉に「技巧ばかりで自分のスタイルではなかったのだろうか」とショックを受け、自身がこれまで影響を受けてきたマティスやピカソなどの作風から脱却を図ろうと、試行錯誤を続けました。

 

第二次世界大戦では従軍画家として活動

第二次世界大戦が開戦されていてもパリにとどまっていた猪熊。

しかしパリの戦火から逃げるため、1940年に最後の避難船となった白山丸で帰国します。

そして1942年に太平洋戦争がはじまると、従軍画家としてフィリピン戦線に向かいました。

1943年には新戦場従軍画家26名に選ばれ、ビルマ(現 ミャンマー)に派遣。

1944年に東京都美術館で開催された陸軍美術展には「○○方面鉄道建設」を出品しました。

 

数々の作品を発表し話題に

戦後は東京大田区に田園調布純粋美術研究室を開設するなど、後進の指導に努めていた猪熊。

三越百貨店から包装紙のデザインを依頼され、千葉で海遊びをした時に拾った石をモチーフに、「人々が荒波に耐える石のように強くなってほしい」という願いを込め「華ひらく」をデザインしました。

1949年には、谷口吉郎設計による慶應義塾大学学生ホールの東西面の壁画「デモクラシー」を制作。

名古屋丸栄ホテルの壁画「愛の誕生」(1950年)、上野駅の大壁画「自由」(1951年)など、立て続けに壁画制作にも多く挑戦していました。

 

1955年から20年間ニューヨークで活動

1955年、猪熊はパリへの渡航中に寄ったニューヨークに魅せられ、急遽パリ行きを止め、ニューヨークで20年暮らすことになります。

ニューヨークではマーク・ロスコやジャスパー・ジョーンズ、イサム・ノグチといった有名アーティストと交流を持ち、抽象表現主義、ニューヨーク・スクールの洗礼を受けた猪熊。この頃から彼の作風も具象から抽象に変わっていきました。

最初はタイトルやモチーフに具象の名残がありましたが、その翌年からは全て抽象的な表現で描かれるようになり、リズムやカラーに溢れたスタイルを展開していくようになります。

 

晩年

1973年、脳血栓で倒れたことをきっかけにニューヨークを離れた猪熊は、冬はハワイ、それ以外は東京で制作活動を行うことにしました。

絵画をキャンバスから解放するように、「音の世界」(彫刻の森美術館)、「極点」(日本IBM本社ビル)、「創造の広場」(MIMOCAゲートプラザ)、「ロボット誕生」(川崎市第三庁舎市民ホール)といった壁画を多数制作します。

グラフィック・デザイン、挿絵、家具のデザインを行うなど、デザインの分野でも名作を残し、サンパウロ・ビエンナーレ、カーネギー国際美術展など国際展にも出品するなど、国際的に活躍しました。

猪熊は1993年5月17日、享年90歳で亡くなります。

彼は亡くなる直前まで制作活動を続け、90年間で膨大な作品を残しました。

 

猪熊弦一郎の作品の特徴

シンプルな線・平面的な表現

猪熊はアンリ・マティスから「おまえの絵はうますぎる」と言われて以来、それまで最先端の表現だったパリ芸術から脱却を図るために試行錯誤していました。

そして描くべきモチーフを単純化し、シンプルな線で表現するようになりました。

ニューヨークに拠点を移して以降は抽象表現主義の画家達に影響を受け、作風が具象から抽象に変化し、一層平面化していきました。

 

原色を使った配色

猪熊は、「色の美しさは其一つの色自体が美しいのでなくて、周囲とのコントラストから生まれてくる美しさである」という言葉を残しています。

「色彩の魔術師」と呼ばれたマティスに強い憧れを抱いていた彼は、色の効果や使い方について長年の研究を重ね、原色に近い色を用いた鮮やかな作品を多く残しました。

 

猪熊弦一郎の代表作品9選(絵画)

婦人像(1926)

ゆったりと藤の椅子に腰かけた着物の女性。手には本を持っています。

着物の女性の後ろには二人の女性の顔が見えますが、着物の女性よりも粗いタッチで描かれており、この二人の女性が絵に描かれた女性だということが分かります。

猪はこの「婦人像」で第7回帝展初入選しました。

モデルになった女性は同年に結婚した妻の文子夫人です。

 

長江埠の子供達(1941)

太平洋戦争が目前に迫った頃、猪熊はパリから帰国しました。

そして戦争が始まると、新制作派協会の創設メンバーの1人である佐藤敬と、1941年5月に中国文化視察のため南京方面へ、中支派遣軍報道部の報道班員として派遣されました。

その時描いたと言われる「長江埠の子供達」には、物売りの子どもたちと犬の姿が描かれています。

 

〇〇方面鉄道建設(1944)

猪熊が新戦場従軍画家としてビルマ(現 ミャンマー)に派遣されていた時に描いた戦争画です。

「〇〇方面鉄道建設」はタイトルに〇〇と記載されており、具体的な地名が明かされていません。

○○と書かれているのは工事現場の場所名も機密事項だったためです。

工事現場ですが、どこか牧歌的な雰囲気がある「〇〇方面鉄道建設」は、猪熊の唯一現存する戦争画です。

 

青い服(1949)

1949年に描かれた「青い服」。

黄色のソファに横たわる青い服の女性。モデルは妻の文子です。猫と遊びながら、顔はこちらに向いています。

ソファには2匹の猫がくつろいでおり、青い服の女性に抱きかかえられたようにもう1匹の猫がいます。

マティスの影響が見てとれる原色を使った色遣いで描かれています。

猪熊は文子夫人と猫を終生愛し、モチーフとして描き続けました。

 

猫と食卓(1952)

青い食卓の上で食事をしている5匹の猫を描いた「猫と食卓」。

愛猫家として知られ、多い時には12匹の猫を飼っていたという猪熊弦一郎。

猫を描いた作品は油彩、水彩、ドローイングなど数多く、丸亀市の猪熊弦一郎現代美術館には700点以上もの猫の作品が所蔵されています。

猪熊は猫が食卓に乗っても、ふすまを破いても怒らず、「それも猫が作った作品だから」と許してしまうほど猫を愛していました。

 

驚く可き風景B(1969)

文化庁優秀作品として国に買い上げられ、現在は東京都国立近代美術館に所蔵されている「驚く可き風景B」。

抽象表現主義の影響を受け、具象から抽象へ作風を変化させたニューヨーク時代。

この作品は幾何学的な長方形や円が巨大なビルが林立する大都会の風景を連想させます。

円や直線を基本としながらも画面は冷たいものにならず、活力と流動性にあふれていると評されています。

 

Two Shores(Yellow)(1970)

リズム感のある構図が印象的な「Two Shores(Yellow)」。

Shoresは海や湖、川などの岸や海岸、陸地を意味するため、この作品は海を黄色で表現し、左右に幾何学的に描かれたのが岸であることが想像できます。

ピンクで描かれた長方形が画面全体を引き締め、緊張感を持たせています。

 

Faces80(1989)

猪熊の最愛の妻、文子は85歳でこの世を去りました。

それ以降、猪熊は亡くなった妻を思い、「描けば妻の顔が出て来るかもしれない」と人の顔を描き始めます。

猪熊はいつしか顔の造形的な面白さに気が付き、夢中で顔を描き続けました。

「Faces80」は9マス×9マスの中にまるで曼荼羅のように顔を描き、1マスだけ青緑色に塗りつぶされています。

 

ロボット・顔・犬(1992)

ロボット・顔・犬 1992年

ソース

妻の文子が亡くなった後、顔を描くことにハマっていた猪熊は、顔以外にも具象的なモチーフを単純化させ、抽象絵画の中に組み込む表現を行うようになりました。「ロボット・顔・犬」もその頃の一つです。

「ロボット・顔・犬」を描いた翌年、猪熊は「祝90祭猪熊弦一郎展」で第34回毎日美術賞を受賞し、同年5月に死去しました。

 

絵画以外の代表作品

三越の包装紙「花ひらく」(1950)

三越デパートの包装紙は、白地に丸みを帯びた赤に抽象形が印象的です。

この包装紙のデザインタイトルは「華ひらく」。

このデザインを考えたのは猪熊弦一郎で、海辺の石から「波にも風にも負けずに頑固で強いこと」「自然の作る造形の美しさ」をイメージして制作されました。

そしてこのデザインを受け取ったのは当時三越宣伝部にいたアンパンマンの生みの親やなせたかしです。抽象形に白字で「mitsukoshi」と書かれている文字は、やなせたかしの字になります。

 

自由(上野駅の壁画・1951)

東京・上野駅の中央改札口のコンコースには猪熊の壁画があります。

スキー板を持っている人、魚を持っている人、くつろいでいるマタギ(狩猟)姿の人、馬や犬などが描かれています。

描かれたのはまだ戦争の爪痕が残っている時代、上野駅は東北から上京する人たちの玄関口でした。

「戦後の物のない殺伐たる時代。もっと自由な気持ちで物の本質を見よう、と“人間の自由”を訴えたかった」と言葉を残しています。

 

デモクラシー(慶応義塾大学ホール・1949)

第2回毎日美術賞受賞作品を受賞した壁画「デモクラシー」は、谷口吉郎が設計した慶応義塾大学の三田キャンパス学生ホールを飾るために制作されました。現在は学食に展示されています。

楽器を弾き、読書をするなどのびのびと過ごすような様子が描かれており、「デモクラシー」は猪熊の初の壁画作品となりました。

 

和敬清寂(香川県庁舎東館壁画・1958)

茶道の心得を示す標語で、主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にすることという意味を持つ和敬清寂。

香川県庁舎旧本館、現東館は建築家、丹下健三の代表作の一つです。

当時の香川県知事だった金子正則が偶然道で出会った中学時代の先輩だった猪熊に県庁舎をどう作るか相談したところ、「よい設計を」とアドバイスし、丹下を紹介し香川県庁舎が竣工されました。

そして丹下の依頼で猪熊が壁画をデザイン、それぞれの面のタイトルに「和敬清寂」の文字が一つずつ当てられています。

 

猪熊弦一郎の作品を観ることができる美術館

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川県)

1989年、故郷の丸亀市に1000点の作品を寄贈したことにより、1991年に丸亀市猪熊弦一郎現代美術館が開館しました。

猪熊の「美術館は心の病院」とコンセプトの下、駅前にある美術館としても有名です。

空間は建築家の谷口吉生と設計段階から猪熊が作り上げ、また当時では珍しく現代美術を積極的に取り上げる美術館でもあります。

常設展では猪熊の作品を、企画展では猪熊の作品を含む現代美術を鑑賞することができます。

 

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館詳細

開館時間:10:00~18:00

休館日:月曜

入館料: 一般 300円  大学生 200円

 

東京国立近代美術館(東京都)

猪熊の作品は9作品収蔵されている東京都国立近代美術館。

その中でも、猪熊が戦時中に従軍画家として戦地に赴いて描いた「○○方面鉄道建設」が収蔵されています。猪熊の戦争画で現存する唯一の作品です。

また文化庁優秀作品として国に買い上げられた「驚く可き風景(B)」、「風景CX」、「Confusion and Order」などニューヨーク時代の作品が多く収蔵されています。

東京国立近代美術館詳細

開館時間:10:00~17:00

休館日:月曜

入館料: 一般 500円  大学生 250円

 

「猪熊弦一郎」のおすすめ関連書籍

猪熊弦一郎のおもちゃ箱

物語作品集「猪熊弦一郎のおもちゃ箱」。

マティスとの出会い、藤田嗣治やイサム・ノグチ、イームズ夫妻との友情や交流、パリ、ニューヨーク、ハワイ、日本での画家生活、妻文子が亡くなったあとの晩年の生活について、作品とともに掲載されています。

また1984年に刊行し、復刊待望の声が多かったエッセイ「画家のおもちゃ箱」が再収録されています。

猪熊弦一郎のおもちゃ箱

2,970円 (税込)

出版社 ‏ : ‎ 小学館 (2018/2/26)

 

ねこたち

猫を12匹も飼っていたほどの愛猫家で、猫を描いた作品も多く残っており猫の画家としても知られている猪熊。

また猪熊は猫について「猫は小さい、そして何処にもありふれた動物であるが、これを描き得れば、他の動物も同じ事である。私は、人間もふくめての動物を深く知り度い。」と語っています。

猫を愛する国際的画家が描いた猫の作品、猫の総登場数690匹、愛猫家でなくとも手に取りたい一冊です。

出版社 ‏ : ‎ リトル・モア (2015/6/13)

 

まとめ

愛するものに美を見出し、自由に描き、生涯画家であった猪熊弦一郎。

従軍画家時代にはオルゴールを、疎開先にはピアノを運び、どんな状況でも美しい暮らしを大切に、前向きに生きた画家でもありました。

猪熊の「心の病院」という思いが込められた猪熊弦一郎現代美術館をぜひ一度訪れてみてください。

 

 
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